利害の相違より共通の脅威が重要 ロシア・グルジア戦争後の世界 レイン・ミュラーソン
- 2008/09/16(火) 13:26:06

「それは、悪に対する善の戦いではない。それは、力の均衡のために戦っている勢力同士の戦争である。この種の戦いが始まると、それは、他の戦いより長く続く。なぜなら、神はどちらの側にもいるからだ」−パウロ・コエーリョ 『アルケミスト』(訳注1)
2008年8月8日は北京五輪の開幕日としてよりも、ソ連の崩壊やベルリンの壁の崩壊と同じくらい重要で、9・11をも影を薄くさせるくらいの国際社会の発展でのより重要な節目を表すものになるであろう。姿を表しつつあるものは新しい冷戦ではないかもしれないが、新しい分断の線が最も重要な安全保障の問題上に出現しつつあり、その結果、さまざまな国際機関の役割が変わらざるをえないというのは確かなようだ。「龍」はまだ静かに、かつ賢明に力をつけつつあり、2008年8月8日の勝利を楽しんでいるが、その歯と爪をみせたのは、猟師と猟犬に囲まれた「熊」であった。
2008年8月8-12日のグルジアとロシアの間の戦争と、それが議論になり、いまだ暴力的な余波があるという状況を踏まえて、コーカサスの出来事を理解するためには、その地域の歴史を掘り下げてみるばかりではなく(それが助けになることはあるが)、より広い背景で歴史と進行中の紛争を見ることが必要である。つまり、エネルギー資源へのアクセスなど世界秩序の将来をめぐる新しい地政学的争いという背景である。
そうしたアプローチにより、コーカサスでの紛争に、多少は恒久的で、満足のいく解決策があるのかどうかが明らかになるかもしれない。確かなことは、手っ取り早い解決策はないということである。また、すべての外部のパワー(ワシントン、ブリュッセル、モスクワを含む)が一つの方向に進むことに真摯に同意するというシナリオはありそうもないが、仮にそうなっても、密接に、個人的に、感情的に関与した人たちの怒りや認識、誤解があるため、予見できる将来において、すべてに等しく受け入れられるような成果は生まれないであろう。
グルジア・ロシア紛争の主因は、ノール・アチャーソン、ジョージ・ヒューイット、ドナルド・レイフィールドらのopenDemocracyの筆者たちが探ったように、同地域の近代史にある。それには、ヨシフ・スターリン(南オセチアとアブハジアが「問題」となる政治的状況を作り出した)とズビアド・ガムサフルディア(ソ連後の初代大統領で、彼の民族主義的な政策は、それらの地域をグルジアの支配から離れさせることになった)などの指導者の政策が含まれる。
しかし、今日の状況で最も重要な要素は、外部の国が(主に米国とロシアが)対立した世界的、地域的利害を有しー法律用語を使うとー依頼人として行動しているということである。一方、グルジア、アブハジア、オセチアの指導者たちは、自分たち自身の課題を抱え、依頼人たちを操ろうとさえしているのに、依頼人の代理人として見なされざるを得ないということである。openDemocracyでのフレッド・ハリディの議論に関して言えば、時には実際、しっぽが犬を振るかもしれない。もっともそれは、二次的な事柄に関してだけであって、通常、犬自身が振られていることを大して気にしない時だけである。
グルジアのミハイル・サーカシビル大統領は、テレビ番組で恐らくうっかりと、問題なのはグルジアでもその領土保全でもないと言った。ロシアはグルジアとではなく、西側と戦争状態にあると彼は言った。ある意味では、そうである。けれども、これは、コーカサスでロシアに対して戦争をしているのは西側であることも意味する。
変化する世界秩序
9・11以後、多くの米国とその他の西側の指導者たちは、西側とその他に対する最も重大な安全保障上の挑戦は、イスラム過激主義とテロリズムであると真剣に信じた。今日、そのような認識は、かなり過去に属するものである。
1998年に出された影響力のある報告書は、「グレート・ゲーム」、「文明の衝突」、「来るべき無政府状態」、「歴史の終わり」(訳注2)の4つのシナリオを示している。(Zalmay Khalilzad & Ian Lesser, Sources of Conflict in the 21st Century: Regional Futures and U.S. Strategy , RAND Corporation) 著者らは最後の2つのシナリオは、前の2つのシナリオよりありそうもないと考えた。彼らはグレート・ゲーム説を支持しているように見えた。新しいグレートパワー・ゲームでは、西側(まず第一にワシントン)対中国とロシアという構図である。イスラムの脅威は、米国に対する最も重大な挑戦とは見なされていなかった。9・11はそうした優先度を変えたかもしれないが、一時的なものであったのかもしれない。
この点に関して、ロバート・ケーガン(訳注3)が2007年9月にした議論は示唆的である。「近代化、資本主義、グローバリゼーションという強力で、時に非人間的な力に対するイスラム主義者の戦いは、現代世界における紛れもない重大な事実である。だが、奇妙なことに、近代化と伝統主義の間のこの戦いは、主に国際舞台における前座の出し物である。将来は、過激イスラム主義者の想像上の敬けんな過去を回復するための活動ではなく、グレートパワーの間のイデオロギー的戦いで支配されそうだ」("The world divides....and democracy is at bay", Times, 2 September 2007)。
このシナリオでは、異なった社会・政治体制、文化を持った国々が、共通の脅威に―地球温暖化、エネルギー資源の不足、大量破壊兵器の拡散、テロにー緊密に協力できるのか、相互関係より国内制度における相違のほうを優越させるのかどうか重大なジレンマになっている。
ケーガンは次のように書いている。「将来は、過激なイスラム主義者の想像上の敬けんな過去を回復するための活動ではなく、グレートパワーの間のイデオロギー的戦いで支配されそうだ」。彼は米国に対し、次のように助言している。「他の民主主義国とともに、共有する原則と目標を反映し、強化するための新しい国際的な機関を作るべきである。恐らく、民主主義国家の新しい連盟は、今日の問題につい定期的な会議と協議をする」。そのような世界政治の形態の兆しが見え始めているという点で、ケーガンは正しいのかもしれない。実際、もしこれが現在起きつつあるものならば、ケーガンの処方箋に従っている人々の政策の結果、世界の新たな敵対的陣営への分裂はかなり実現しつつある。
Laurence Jarvikは、主に中央アジアでの西側NGOの役割についての鋭い記事の中で、ザルメイ・ハリルザド(訳注4)とイアン・レッサー(訳注5)が描いた2つの最もありそうなシナリオについて述べている。彼は次のように考える。もし米国が、国内制度が自由民主主義の基準と合致しない国々の安定を損なう勢力(一部のNGOを含む)を鼓舞するのではなく、そうした国々の能力向上を助けるならば、米国と国際社会全体はより利益を受ける。(Laurence Jarvik,"NGOs: A ‘New Class' in International Relations", Orbis, 51/2, Spring 2007)。
中国やロシアのような国に対する新しいグレートパワー・ゲ-ムの中で、同盟国にしようと、その国の安定を損なうことは、不安定とテロの新しい紛争地域を作ることになるであろう。マイケル・ショワー(訳注6)は「国民国家と戦い、打ち負かすことを好んだブッシュ政権の冷戦的特性は、スンニ派イスラム主義者による一層危険な国境を越えた脅威を計り知れないほど強めた」と言う。(Marching Toward Hell: America and Islam after Iraq, Free Press, 2008)。
問題なのは、中国とロシアが専制的であり、従って西側民主主義国のように行動しないということではない。アウグスト・ピノチェトのチリは、ワシントンの助言にまったくしっかりと従った。問題は、中国とロシア、台頭しつつあるインドやブラジル、その他の新興国が発言権を持っていないか、ほとんど持たない既存の国際権力構造に同化されることを拒否していることである。それらの国は、彼らの思うままにではないにしろ(それは無理な話である)、少なくとも、ほぼ対等なパートナーの間で交渉するという条件であれば、ロバート・ゼーリック前国務副長官の言葉を借りると、国際社会で「責任ある利害共有者」になるかもしれない。
リチャード・サクワ(訳注7)は「(ロシアの)国際体制への制約された形の適応は、戦略的方向がはっきりしていたところで現れた。つまり、(長期的には加盟は排除されていないものの)加盟(accession)なき統合(integration)である。だが、統合のペースと形式はロシアの裁量のままに残されている」と書いている。わたしは「加盟」という言葉ではなく、「同化」(assimilation)という言葉を使う。西側の自由民主主義国のようになろうとしている小さな東中欧諸国とは対照的に、中国と同様ロシアは、既存の体制に同化されることを拒否している。
ボリス・エリツィンのロシアは、西側の助言者に促されて、そのような同化政策をとろうとしたが、国民にとっては悲惨な結果をもたらした。問題は例えば、東中欧の小さな諸国の場合うまくいくことが、より大きな問題を持った大きな国には、まったく性質が異なるかもしれないということである。
さらに、サクワは「今日の国際体制は、台頭しつつあるグレートパワーの統合のためのメカニズムを持っていない」と言う。その統合の条件は、ワシントンやブリュッセルから指図されるのではなく、協議されるべきである。新しい台頭しつつある現実の中で、ロシアは重要な問題も、それほど重要でない問題でも、不平を言い過ぎてきた。一方、中国は同化の試みに静かに抵抗するという、より賢明でより効果的な戦略を用いてきた(それがチベット、ダルフール、人民元の為替レート、表現の自由をめぐってあれ)。ポール・ロジャーズが示しているように、これは中国が世界に、代償を払うことなしに、商業的影響力、恐らく将来には、政治的影響力を及ぼすことを可能にしている。
外の世界に対する、このような異なった対応は、さまざまな国民政治の性格によるものかもしれない。しかし、それはロシアと西側の利害が、中国と西側の利害よりも厳しく衝突したという事実を反映しているのかもしれない。もっとも、主要な競争相手が誰になるのか(あるいはすでに誰なのか)は疑いないが。ジェフ・ ダイヤーが指摘するように、サワクの言う「台頭しつつあるグレートパワー」の一つの行動が、世界制度全体に影響力を及ぼすような形で、お互いに影響を及ぼす余地もある(Geoff Dyer, "Russia could push China closer to the west", Financial Times, 27 August 2008)。
ワシントンとその同盟国は、ロシアを同化させる、言い換えれば、ワシントン・コンセンサスに従い、米国が主導する自由世界の秩序に加わる自由民主主義市場国家に変換させることに失敗した。今や、NATOをグルジアとウクライナに拡大し、ロシア国境近くに弾道ミサイル防衛を建設し、エネルギー・パイプラインのルートをめぐってロシアと対抗することによって、ロシアを封じ込めようとしている。
そうしたグレート(むしろささいな)ゲームでは、アブハズ人、グルジア人、オセチア人や一部の小さな国は(より多数のウクライナ人もまた)、主として歩兵である。彼らの生活と幸せが、将来の政治的世界秩序のために犠牲にされることはあり得る。こうしたゲームは、米国の指導者が主張するような、コーカサスでの民主主義についてでも、グルジアの主権と領土保全についてでもない。また、ロシアが主張するような、南オセチア人を「保護する責任」についてでもない。もっとも、欺まんと自己欺まんの間の線はしばしば非常に細く、そうした主張をする人々の多くは本当に誠実であるかもしれない。こうした見方は、1920年代にそうであったのと同じように真実であり、コーカサスの紛争に関与している主要な国に示されなければならない。
今世紀の最も素晴らしい音楽家の一人、ワレリー・ゲルギエフがグルジアによって破壊されたツヒンバリの廃墟の中でコンサートを開いた理由をわたしは理解する。それは彼がウラジーミル・プーチンの友人であるからではなく、彼がオセチア人であるからである。(ロシアとグルジアで)人気のある俳優・歌手のヴァフタング・キカビーゼがロシアの政策だけに過ちを見る理由をわたしは理解する。それは、彼がグルジア人であるからである。
アーネスト・ゲルナー(訳注8)は次のように書いている。「民族主義者が自分たちの国に対する不正へ持つ感受性と同じように素晴らしい感受性を、自分たちの国が行う不正へ持つなら、国民感情の政治的な効果は大いに損なわれるであろう」(『民族とナショナリズム』)。そうした自分のグループしか考えられない考え方(tribal mentality)から自由になれる人々が多くないことは残念なことである。物事を別の面を見るには、しばしば多くの知的努力、勇気と感情面の成熟が必要である。しかしながら、個人的にも感情的にも関与していない人々は、ゲルギエフやシェワルナゼなどの人々を含め双方から、彼らが話し、売り込もうとしていることを額面で受け取ることなく、聞くことが必要である。
強い非対称
民主主義と人権、さらに主権と領土保全の原則は重要である。だが、それらの価値を侵害しているとして反対者や敵対者を非難する時には、スローガンとしてそれらを繰り返さないことで、それらは促進され保護される。今日の世界では、より静かで安定していた時代以上に、こうした価値は、政治主体の矛盾した言葉や行動を暴露することによって守ることができる。
コソボ・アルバニア人がセルビア人に迫害されている時に、クレムリンは彼らを保護するために駆けつけることはなかった。ホワイトハウスは、セルビアの領土保全を気に掛けることはなかった。反対に、ワシントンは事実上の独立につながったコソボ州の政権を支持した。モスクワは、トビリシが友人であり、NATO加盟を望んでいなければ、アブハズ人や南オセチア人の独立の願望に対して、そのような理解を持つことはなかったであろう。ワシントンは、グルジアが再興したロシアと戦略的にそのように近くなければ、パプアニューギニアではなくグルジアにおける民主主義の方を気遣うことはなかったであろう。さらに、バクー・トビリシ・ジェイハン(BTC)パイプラインは、ロシアを迂回して、グルジア領土を曲がりくねって通っている。
オセチア人とアブハズ人に対するクレムリンの関心は、主に道具としてである。それは、「グルジア人のためのグルジア」というスローガンを使った、ソ連後の初代大統領、ズビアド・ガムサフルディアの近視眼的で性急な政策であった。それは、3代目の大統領、ミハイル・サーカシビルであり、彼の領土に対する強硬策は、地政学的ゲームの本気なプレーヤーなら滅多に見逃すことがない機会をロシアに与えた。小さな国は、世界的なパワーゲームで利用されるというのは事実である。
力の議論
ロシアやNATOの指導者も、そうした分析を受け入れないことは明白である。前者は、彼らの動機が不誠実なアングロサクソンの動機とほんの僅かでも似ていると考えられることに対し、聖なる怒りでいっぱいである。一方、後者はヨシフ・スターリン(グルジアでもロシアでも、その独裁者を崇拝する人たちは実際、たくさんいる)の信用できない後継者と比べられることに怒っている。
しかしながら、そうしたマキャベリ的なアプローチへの代替案は、往々にしてホッブスの世界で行動しなければならないことになる。だが、それはまるでロックの世界にいるかのようである。(ハンス・モーゲンソーによって十分分析されたように)ケーガンは、世界の人々は「国々が変わらずパワーによって定義された利益を追求している」世界に住んでおり、住み続けるであろうということを認めている。もっとも、ケーガンは(モーゲンソーとは対照的に)、西側民主主義国、特に米国は国際政治に道徳を持ち込み、イデオロギーと政権の型が重要である主張して、見事な知的な180度の転換をしているのだが。(Robert Kagan, "Power Play", Wall Street Journal, 30 August)。
確かに、それらは重要である。特に、西欧のいわゆる「ポストモダン」、ウェストファリア後の国際関係との関連では。クリストファー マイヤー(訳注9)は、現実主義者の伝統により正直に従っている。彼はこう書いている、「仮にロシアが、われわれが世界で広まってほしいと思っている種類の完全に機能した民主主義だとするなら、その外交政策は少しも異なるものではないであろう。それにルーブルの大金を賭ける」。(Christopher Meyer, "A return to 1815 is the way forward for Europe", Times, 2 September 2008)。
成熟した自由民主主義国は、これまでのところ、互いに戦ったことはない。だが、それらは(特にワシントンンは)他のどの国よりも他に対して武力を行使してきた。(Stephen Kinzer, Overthrow: America's Century of Regime Change from Hawaii to Iraq, Times Books, 2007)。そのような武力の行使は、常に国際法や道徳と合致していた訳ではない。1920年代末にカール・シュミットは、「ある国が人道の名目でその政治的敵と戦う場合、それは人道のための戦争ではない。特定の国が軍事的敵に対して、普遍的な概念を侵害しようとするための戦争である。・・・人道という概念は、帝国主義的拡張の特別に便利なイデオロギー的道具である。倫理的人道的な形では、それは経済的帝国主義の特別の道具である。ここで、プルードンのやや変形した表現を思い起こすかもしれない。人道を呼び覚ませるものは誰でも、だましたいのである」。(Carl Schmitt, The Concept of the Political, University of Chicago Press, 2007)。
現実的反転
コーカサスにおいてどのような種類の措置が取られるのかは、大国、特にワシントンがどのような世界を望むのか次第である。もし米国が、ロシアは西側にとって信頼できるパートナーではなく、従って封じ込める必要があると思うなら、グルジアもウクライナも現実的な限り早くNATOに加盟させるべきである。ロシアをG8から追放し、世界貿易機関への加盟の見通しを閉じること(その他の措置)は有効であろう。欧州は、意味ある経済的制裁が現実的になるには、ロシアの石油とガスに依存し過ぎている。
そのような場合、ロシアは恐らく正当に、グルジアの離脱した領土をロシアに組み入れ、ウクライナの親ロシア地区で騒乱を起こそうとするである。クリミア半島の将来は重大な紛争の場になるであろう。2017年に20年の貸与期間が切れる時、ロシアがその艦隊をセバストポリから退去させるか疑問である。ウクライナがNATOに加盟すれば、必ずクリミア半島、特にセバストポリをめぐって危機を引き起こすであろう。
ロシアはワシントン・コンセンサスに従おうとしないし、その経済的・安全保障の利益を守ろうと積極的に主張する。 ( Rein Müllerson, "The New Cold War: How the Kremlin Menaces both Russia and the West", Chinese Journal of International Law, 7/2 [May 2008]) しかし、それにもかかわらず、もし西側(米国を含む)が、宗教が動機のテロや大量破壊兵器の拡散、地球温暖化、エネルギーと食糧の不足などの地球規模の懸念を解決するうえで、ロシアが有益な(時には不可欠な)パートナーであると信じるなら、違ったアプローチを追求する必要がある。確かに、政治家は窮地から後戻りしている時でも、Uターンしているとは決して認めない。しかしながら、それがコーカサス紛争や世界全体での緊張が、予測不能なまでに拡大するのを防ぐために必要なことである。
忍耐の時
アブハジアと南オセチアの独立を正式に承認することで、ロシアはコソボを承認した西側諸国と同じように軽率に行動した。両者はこうして領土紛争というパンドラの箱をさらに開けてしまった。クレムリンの決定には、2つの大きな間違いがある。第1にモスクワは、そうでなければロシアのNATOに対するスタンドプレーを理解するか、歓迎さえもしたかもしれない国々の多くからの支持を今や期待できないでいる。中国やインド、多くの国々は、「自国自身」の少数民族が持つかもしれない独立要求への励みになることに極めて神経質になっている。
この点では、一部の政治家が新しい国家、例えば、コソボ、アブハジア、南オセチアの承認はそれぞれのケースでまったく異なり、前例とならないと空疎な主張をしているのは、コーカサスもバルカンでも同様に間違いである。このことについての相違や類似点は、見る人によって違ってくる。もし証明が必要なら、ビシュケク(ドゥシャンベが正しいー訳者)での上海協力機構の首脳会議でロシアに与えられた熱意に欠けた支持がそれを証明している。
第2に、それらを承認して、クレムリンは奥の手を使ってしまった。手の内を見せずに、それを使うと脅し、実際にはテーブルの上に投げないことの方が、クレムリンの利益であったであろう。これはマキャベリ的に聞こえるかもしれないが、オセチア人やアブハズ人の苦境にクレムリンが流している嘘泣きの涙や、グルジア人やウクライナ人の運命にワシントンが流している嘘泣きの涙を信じるよりは、より良く、より正直な事態の評価である。
今必要なことは、両者とも修辞を抑えることである。その後で、小さな実際的な措置が有益であるかもしれない。ロシアの行動には、西側は行動でお返しをしなくてはならない。NATOは、グルジアとウクライナへ拡張するという方針を直ちには取り消すことはできない。しかしながら、このプロセスを促進するのではなく、ブレーキを掛けることは賢明であろう。ロシアは、これらの離脱共和国を必要としていないことを理解している。必要なのは、友好的なグルジアである。しかしながら、そうしたグルジアになるためには、米国はロシアの囲い込みと封じ込めの目的で同国を使うことをやめなければならない。
ロシアは。時に不可避的に西側の選ぶものとは異なる自己の利益を追求するが、世界的規模の難題に直面した中で、西側にとってグルジアよりも重要なパートナーである。もし、世界的な「テロとの戦い」が実際に最も重要な問題の一つであるなら、これはとりわけ、本当のことである。ついでに言えば、もし、ロシアが敵(あるいは少なくとも、潜在的な敵として)として、あるいは、パートナー(少なくとも潜在的なものとして)見られない場合にのみ、グルジアやウクライナは、ロシアよりもっと重要なパートナーとなる。
これは、西側はロシアとの協調関係のために、こうした小さな国を犠牲にするべきであると言っている訳ではない。これらの国は、ロシアと西側民主主義国の間の協力関係からも、彼ら自身のロシアと西側との協力からも利益を得るであろう。ロシアの周辺にある小さな国に対して、どちらか一方を支持するように強制したり、後押しすることーわれわれの側につくのか敵なのかーということはそのような国にとって、極めて不利益である。さらに問題の原因が、ロシア(いわゆる親ロシアの政治家を積極的に支持している)なのか、西側(親西側指導者を支援している)なのかは問題ではない。どちらの場合も、指導者が栄えても、国民は苦しむ。
当面の措置の一つとして、グルジアは離脱した地域と「武力不行使」の協定を結ぶように説得されるべきである。その後に、他の協力的措置が可能になるかもしれない。仮にグルジアがそれらの領土を奪還できたとしても、ロシアとの永続的友好関係が樹立されてのみ可能である。とちらも、すぐにはそうならないであろう。従って、忍耐が必要である。ここでもう一度、グルジアやロシア、米国よりも中国から学ぶことの方が多いようだ。
欺まんのベール
わたしは国際法の教授として、国際法の観点から状況を評価することが期待されるかもしれない。わたしはそれができるが、わたしと読者の貴重な時間を浪費することになる。なぜか?コーカサス紛争に直接関与している人々、どちらかの側に強く共感している人たちが、国際法の専門用語を使っている状況のためである。(侵略、占領、ジェノサイド、人種差別、領土保全、平和執行、人道的任務、条約の神聖)という言葉が、何の制約もなく、嬉々として、独善的な怒りで、ジャーナリストばかりでなく詩人もうらやむ自信でもって使われている。
このような状態で、地味な専門家の私見としては、国際法の学者の一つの任務は、法律の専門用語が隠そうとしている利害を垣間見るために、その悪用されたベールをはぐことである。超大国が新しい対立に向かっているという危険な動向を逆転させることが可能なのは、欺まんと自己欺まんを暴露することによってだけである。その対立は、以前のものとは対照的に、イデオロギー的原因がなく、実利的な利害の相違よりも、共通の脅威と挑戦の方がより重要となっているようだ。
*レイン・ミュラーソン(Rein Müllerson) キングズ・カレッジ・ロンドンの国際法教授。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス客員教授、国連人権委員会委員。エストニア第一副外相(1991−92年)。
訳注1 ブラジルの作詞家、小説家。
訳注2 「グレート・ゲーム」は、「中央アジアの覇権を巡る大英帝国とロシア帝国の敵対関係と戦略的抗争を指す。アーサー・コノリーが命名した言葉といわれる」(ウィキペディア)
「文明の衝突」は米国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンの著書の題名。冷戦が終わった現代世界においては、文明と文明との衝突が対立の主要な軸であると主張する。
「来るべき無政府状態」はジャーナリストのロバート・カプランの著書の題名。冷戦後の世界は、民族紛争が頻発する世界となると主張。
「歴史の終わり」は米国の政治経済学者フランシス・フクヤマ著書の題名。「『歴史の終わり』とは、国際社会においてリベラルな民主主義と資本主義が最終的な勝利をおさめ、それ以上の社会制度の発展が終わり、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという、将来における仮説である」(ウィキペディア)。
訳注3 米国政治評論家、ネオコンの代表的論者。
訳注4 米国連大使。アフガニスタン駐在大使、イラク駐在大使を務めた。
訳注5 ワシントンのシンクタンク、米国ドイツ・マーシャル基金の上級研究員。
訳注6 前CIA職員、ビンラディン班長。
訳注7 ケント大学ロシア欧州政治学教授
訳注8 歴史学者、哲学者、社会人類学者。『民族とナショナリズム』岩波書店刊
訳注9 英国の前駐米大使
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文
(翻訳 鳥居英晴)
グルジアに対する西側の幻想 紛争地域についての理解が不可欠 ドナルド・レイフィールド
- 2008/09/03(水) 00:30:46

2008年8月8-12日のグルジアとロシアの5日間の戦争の残り火は完全には消えていないが、フランスのニコラス・サルコジ大統領が交渉し、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領とグルジアのミハイル・サーカシビリ大統領が合意した停戦協定で、この激しく、破壊的で悲劇的な戦争を終わらせる希望が出ている。
さらに広い視点から言えば、戦争によって住む家を失い、傷ついた市民が、破壊された生活を再建するうえで、ささやかな安全と人道支援を受けることができるようになった時には、その背景、原因、教訓を完全に調査する場所が作られるべきである。この大きなプロジェクトに、いくつかの初歩的な解説を提供することは、この初期の段階で適切かもしれない。
この「短く、汚らわしい戦争」についてのメディアの報道の多くは、精力的で、詳細であった。ロシアとグルジアの広報官によって伝えられる偏向した(多くの場合、まったくの虚偽であった)事態の説明に疑問を呈し、多くの疑念を示した。これとは対照的に、評論家たちは、紛争の原因を探るという基本的な仕事への関心を失っている。実際、多くのおびただしい言論は、現地と地域の要素を完全に無視し、手軽な地政学を援用している。それはまるで、今回起きたことの中心にある南オセチアとアブハジアが存在しないかのようである。
南オセチア 今回の火事
南オセチアは、法的にはグルジアの中にある小さな領土で、今回より長く、同じように汚らわしかった1991−92年の戦争以来、グルジアの支配外にあり、5日間の戦争の直接の引き金であった。この地域の背景をより深く見れば、これは起きるべきではなかった紛争であったことを示している。中央コーカサスの南山麓に住む約4万人のオセチア人は、北側の山麓(ロシア領)に住むオセチア人の主体とはほとんど別に発展し、異なる方言を話すまでに至った。700年間にわたり、彼らはグルジア人の村と混在した村に住んできた。平和に混じり合い、宗教は同じで、グルジアの王族と知識人と結婚してきた。
重大な衝突は、ソ連後の初代大統領で半分気が狂ったスビアド・ガムサフルディアが、(1992年の短い支配期間とそれ以前に)、極めて排外主義的な民族主義を信奉してから始まった。グルジア人以外の市民は同国での「お客」であると宣言した。ガムサフルディアは、自治を廃止し、南オセチアという名前も廃止した。また大臣の一人、Vazha Adamiaをツヒンバリへのデモの先頭に立たせた。
数百人が殺されると、グルジアのオセチア人は、唯一の選択肢に見えたものを選択した。分離することである。彼らはすぐに「平和維持部隊」の名目でいるロシアによる保護を見出し、新しい制約された状況の中、やせた土地とコーカサスを越てくる物資の密輸で生活をやりくりした。1990年代終わり、(ガムサフルディアが死んだ後に政権を握った)エドアルド・シェワルナゼのグルジア政府は、この取引を大目にみていた。それは、グルジア・南オセチア境界で行われた車のトランクを使った市場での、闇商人とも平和的に共存し、活発に行われた。
2003−04年の「バラ革命」でシェワルナゼに代わって後を継いだサーカシビリは、ほとんどすべてのグルジア人政治家と同じように、ソ連後の混乱と暴力の時代に失われた、すべての領土を(必要なら武力を使ってでも)回復すると公約した。この約束とその約束(例えば、その展望は常に非常に近い将来である)に伴う修辞は、その約束をした者を抜き差しならない状態に追い込む。南オセチアに関する約束を果たそうとして、サーカシビリ政府は、一連の策略をした。エドアルド・ココイトイに率いられたロシアが支援する南オセチア政府に対抗するため、親グルジアの傀儡政府の樹立、水道と電気の供給の操作、交易所の閉鎖、さらに、それらの措置を拡大し(南オセチアの統治者は対抗し、それをしのぐことさえした)、誘拐、地雷の敷設、ときには銃撃戦にまで至った。
そうした「挑発」(両者によって手当たり次第に投げつけられた言葉を使うと)に直面して、ロシアの平和維持部隊によって武装され、訓練を受けた南オセチア人は、さらなる支援を受けた。そのため、反グルジア活動の犯人が誰であるかーロシア軍なのか地元オセチアの若者なのかー判別するのが困難になるまでになった。オセチアの軍事請負人はとにかく、ルーティンに励んだ。上空を飛行し(ときにはミサイルを「落とし」)、平和維持のために非常に厳しく訓練された部隊で強化した。
さらに、政治的なレベルでは、ロシアの小刻み(サラミ) 戦術は(南オセチア人にロシアのパスポートを発行し、次にロシアの年金、保健、教育制度に統合していく)、最初は住民を同化させる秘密のプロセスで、次に同国をロシア連邦に統合することになったことは疑いない。
それ自体では、オセチアはロシアにとって取得する魅力はほとんどない。そこに別荘を建てる人はいない。(アブハジアには観光施設があるが)、そこには観光リゾートもなく、観光客のために施設を建てる見通しもない。全体で7万人の人口の中で、ロシア市民にはなりたくはないと思っている2万人以上(恐らく最大3万人)のグルジア人が住んでいる。原理的には次のようなことはあり得る。目覚ましい経済成長を見せ、西側世界と統合し始めていたグルジアの隣で、もし南オセチア人が平和にそのまま置かれたら、グルジアと再統合するのではないが、その一部であるかのように住み、またロシアの一部にはならない(ロシアとはとにかく、長く、暗く、危険な1本の道路のトンネルだけでつながっている 訳注1)、ということに最終的に合意に達していたかもしれない。
ロシアの野望とグルジアの政治指導部の性格を考えると、そのようなことは起きなかったし、恐らく起きえなかったであろう。サーカシビリを近くで知るようになった人たちにとって、多くの言語に堪能で、米国で法律の教育を受けた彼は、危険なまでに不安定で、時に冷酷な政治家である。彼の反ロシアの一匹狼としての役割でさえ、実際に見えるものとは違っている。彼が2003−04年のバラ革命の波に乗ることができたことは、ロシアの利益と感情とぶつかり、どちらの側も思い出したくないものであったことを示す多くの証拠がある(それは、両者の間で交わされた人身攻撃の激しさを説明することになるかもしれない)。
もつれた、謎に包まれた話は、次のようなものである。革命の初期段階で、シェワルナゼが不安定な政権にしがみついている時に、サーカシビリは当時のロシア大統領の仲介者の一人、Grigory Luchanskyを介して、ウラジーミル・プーチンと間接的な対話に関与した。野心のあるグルジア人である彼は、グルジアの南西部の州のアジャリア(訳注2)を地盤として支配していた現地の軍閥、アスラン・アバシゼ(訳注3)に対する圧力を掛けることは、彼の年長のライバル(シェワルナゼのことー訳者)に対し優勢になるチャンスだと見なした。
プーチンはアブシゼのロシア治安部隊を撤退させて、願いを入れた(アブシゼが、プーチンのライバルでモスクワ市長のユーリ・ルツコフの同盟者であったことは役立った)。ソ連解体での役割から、シェワルナゼがプーチンのKGBとロシア軍から憎まれていたことも、その動機になった。アブシゼの支配基盤が弱体化され、アジャリアがトビリシの支配に戻った時には、サーカシビリはグルジアの大統領になっていて、国家再統合計画でのこの第一歩を自分の手柄にできた。
事態は転換した。プーチンの(またメドベージェフの)サーカシビリに対する嫌悪は、メドベージェフがotmorozok(「能なし」と「人間のくず」の間の何か)という下品な言葉を使うことで現れている。米国の軍事援助への大きな依存など、ロシアの軌道からできるだけ離れた政治的決定や経済政策を取ることで、グルジア大統領は
ロシア指導者の目の上のたんこぶになった。
サーカシビリはすっかり中傷の修辞をとり戻した。だが、侮辱的言動と民族主義的なわめき声を越えて、なぜ彼が南オセチアで彼の軍隊を使って電撃戦を行い、それをロシアが既成事実として受け入れると考えたのかまだ不明である。この荒っぽい計画について聞いていたはずで、それを防げたはずの米国の軍事顧問はどこにいたのか?サーカシビリをめぐっていくつかの疑問がある。2005年のズラブ・ジワニア首相(訳注4)の原因不明の死と、それに続く異常ないくつかの死における彼の役割についてなどである。
ツヒンバリでの本当の死者数とグルジアの責任の程度は、サーカシビリにさらに影を落としている。広く流布されている1500人という数字以下だったことがわかったとしても、その行動は醜悪で、分離主義者の州の町を取り戻そうとする国軍による(サーカシビリのお好みの言葉で、敵に対してだけ使う言葉を使うと)野蛮な違反である。米国のコンドリ−サ・ライス国務長官がトビリシを訪問する時には、抱擁と握手、それに疑いなく微笑みで歓迎されるであろう。そうだとしても、これが、サーカシビリの西側の同盟国がロシアと同じように、彼に代るもっと分別のある人物を見つけ出そうと躍起になっている、もっともな理由である。
彼の政治的死亡記事が書かれる時には、少なくとも言えることは、南オセチアでの彼の行動は、南オセチアをグルジアに再び統合する見通しは、彼が誤った危険な冒険を始める前より、さらに薄くなっているということである。しばしばあるように、熱狂的なグルジア民族主義の噴出は、それが意図した目的を挫折させている。
アブハジア 波は後退する
グルジアとロシアの間のあからさまな戦争が、南オセチアをめぐって起き、グルジアのもう一つの失われた領土、アブハジアではなかったことは、少なくとも一つの点で驚きであった。 グルジアとアブハジアを分断する問題はより根が深く、重大であるという点においてである(また、グルジア軍が、2006年7月から2008年8月の戦争の中で撤退するまで、アブハジアのコドリ渓谷に駐留していたからである)。
南オセチアがグルジア王国と共和国に何世紀もの間、統合されていたとしても、アブハジについては、確かに統一グルジア国の不可分の部分であったのは、アブハジアの歴史の中のほんの僅かな期間でしかないと言い得る。900年から1225年(グルジア王国の「黄金の時代」)の間と、1936年から1992年(アブハジアの指導者Nestor Lakobaがラベンチー・ベリヤによって殺されて以後、ウラジスラフ・アルジンバの指導の下での分離と戦争まで 訳注5)の間である。
さまざまな時期に、アブハジアはミングレリア(Mingrelia)の支配者によって支配された。それはオスマンの宗主権の下でのことが多かった。1930年代の強制的な人口構成の変化で、アブハジアではグルジア人集団が先住のアブハズ人の数を上回るようになった(アブハズ人の人口は、1864年にロシアがアブハズ人の半分をトルコに追放した時に激減した)。従って、グルジアがアブハジアに対して主権を主張するのは、長い歴史的な関係ではなく、1945年以降の国境の不可侵の原則に基づいている。
より重要なことは、土地が肥沃で昔は魅力的であった海岸と山のリゾート地を持つアブハジアは、その隣国にとって紛れもなく欲しいものなのだ。ロシアの官僚やビジネスマンは、スターリンの古い別荘からユーゴスラビアが建設し、放置されていたホテルにいたるまで、不動産を買い占めている。彼らは、アブハジアの地位が最終的に再検討されたら、彼らの購入は合法的で利益が見込めるという前提でいる。アブハジアはまた、親ロシアのアルメニアと世界と結ぶ主要道路と鉄道が通っている。
1992−93年の分離戦争では支持を隠さなかったロシアの「平和維持部隊」は、以後、駐留することに大きな既得権益を持っている。残忍で破壊的な1992−93年の戦争と1930年代と1970年代でのグルジア人による暴力と嫌がらせを決して許していないアブハズ人は、ロシアの専制支配のほうがずっとましだとしている(ファジリ・イスカンデルの小説『チェゲムのサンドロおじさん』を読んだ人は誰でも、そこに描かれているアブハズ人の帝国支配者に対する態度と、ロシアの支配の下で、好きなように生活していかれるという自信を見出すであろう。訳注6)。独立するかロシア連邦の一部になるかを望むアブハズ人にとって、唯一の脆弱性は南のガリ地域の存在である。そこは、ミングレル人が民族的、言語的に西グルジアのミングレル(サメグレロ)と近く、グルジア人とも近いのである。
ツヒンバリでのグルジアの敗走と、欧米がグルジアへの言葉による支援と経済的支援を軍事行動ないし実効のある政治的制裁で証明することができなかったことで、アブハズ人はグルジアへの再統合を働きかけようとする者はもういないと確信している。ニコラス・サルコジと(フィンランドのアレクサンデル・スタッブ外相の)交渉の結果、欧州連合の平和維持部隊がロシアの平和維持部隊に加えられるかもしれない。だが、彼らは実効あるものにはなりそうもないし、(ロシア軍の行き過ぎた肉体的暴力への傾向を信頼性のしるしとして認め、他のタイプの平和維持部隊の抑制を笑う)コーカサス人に尊敬されそうもない。
遺産
ロシアとの短い戦争で、いまや国土が明らかに小さくなった中でグルジア自身はどうなったのか?恐らく、グルジアの政治家と国民は、より現実的な同盟国が与えている静かで人気のない助言に耳を傾け始めたかもしれないが、これまでのところ、それは無視されている。
第1に、チェコ共和国とハンガリーを見よ。(チェコはスロバキアなしでもうまくやっており、スロバキアもそうである)。ハンガリーは(過激派は別にして、トランスシルバニアを取り戻すという願いあきらめた)。領土が失われることはあり得るのであり、民族的に同質な構成で生きのびられるし、利益を受ける、ということを受け入れよ(これが、エスニック民族主義ではなく、市民が相まって育成される限りにおいて)。
第2に、アブハジアや南オセチアの住民がそこに住みたいと思うような、明白により豊かで、自由で、安全な隣国となるよう、グルジアは、経済的、社会的発展に集中すべきである。
第3に、グルジア人は2つ以上の選択肢があることを認識すべきである。不可能な選択肢は、失われた領土を取り戻すこと、あり得る選択肢はそれをロシアに取られることである。第3の選択肢は、アブハジアと南オセチアの独立を認め、外交関係を与え、国境を開くことである。そうすればこれら2つの地域はロシアだけではなく、トルコ、欧州へと外に向くことができる。
この助言は「西」に対するものでもある。NATOと欧州連合の助言者は、こうした3つの理性的な原則を受け入れられることを条件にして、グルジアにすべての援助をすべきである。また、これ以上の意味のないおしゃべりや公の容認をやめるべきである。
そうした方針に沿って言う勇気のある政治家、そう言っても殺されないと信じる自信を持ったグルジアの政治家を私は知らない。だが、もしそうした政治家が現れないと、2008年8月に起きたことは再び起きるであろう。さらに、次の時はさらにもっと悪い結果となるであろう。なぜなら、ロシアの外交政策はもっぱら、愛されるより、恐れられた方がましであるという原則に基づいているからだ。ロシアのプーチンーメドベージェフーPSB-軍事政権は、少なくとも石油が尽きるまでは、世界の主要脅迫者として強固に構築されているように見える。もしグルジアがさらにやる気を起こさせるものが必要というなら、それは、強硬な立場を続けて、他の少数民族を疎外させることだ。特にトビリシに無視され、(南東グルジアの)ジャバヘチで貧困な生活をしている20万人のアルメニア人は、アルメニアと統合するために戦うことを決めるであろう。
グルジアの歴史は、何世紀にわたる分裂の後に数十年の統一が続くというものである。グルジアの責任ある友人は、どのようにこのプロセスを覆すか、より根本的でより現実的に考え、明確で率直な助言を与えなければならない。一方、グルジアの新しい世代、特に外国に住み、働いたことのある人々は、数ケ月、数年先まで、そのような改革主義、現実主義を共有し、説くことが望まれる。
*ドナルド・レイフィールド(Donald Rayfield) ロンドン大学クイーン・メアリー校の現代言語名誉教授 ロシア語・グルジア語研究者
訳注1 ロキ・トンネル 1985年完成、高度2000メートル、全長3660メートル
訳注2「人口統計上、住民の8割は民族籍をグルジア人とするが、実際にはこの地方のグルジア人の多くがアジャール人と呼ばれるイスラームを信仰するグルジア系のエスニック・グループであるため、グルジア国内で自治共和国を形成している」(ウィキペディア)
訳注3 ソ連解体以前からアジャリアの自治共和国最高会議議長。グルジア独立後、ロシアを後ろ盾とし、シェワルナゼ政権に対して、譲歩を引き出させた。独自の軍事力を持ち、事実上の独立国家となった。国土統一を公約にしたサーカシビリが2004年に大統領に就任すると、中央政府とアジャリアとの関係は一触即発の危機に陥った。サーカシビリ政権はアジャリアに対して武装解除を要求する最後通告を発した。アバシゼはロシアに亡命、アジャリアは中央政府の支配下に入った。
訳注4 20004年1月に首相に就任。2005年2月、ガス漏れ事故でトビリシの友人宅で死去。
訳注5 ベリヤはグルジアのミングレル人で秘密警察長官。アルジンバは1990年、アブハジア最高会議議長に選出。1994年―2005年、アブハジア共和国大統領。
訳注6 2002年に国書刊行会から邦訳が出ている
原文
21世紀国際政治の理解を欠くロシア 長期的には戦略的敗者になる可能性 イワン・クラステフ
- 2008/08/29(金) 17:50:45

欧州は新しい19世紀に入った。2008年8月8-12日のロシア・グルジア戦争はタイムマシンとして働き、1990年代の欧州政治を形成した「歴史の終わり」という気分を雲散霧消させ、現代版のより古い地政学的論理がそれにとって代わった。
より古い論理であって、冷戦の論理ではない。実際、南オセチアをめぐる紛争は、冷戦の回帰という威圧的な修辞を生じたが、それが明らかにしたパワーとイデオロギーの実際の配置は、1945年以降の40年間の超大国の対立の時代とは異なっている。これは実際、タイムトラベルであり、単なる歯車の逆戻りではない。
ロシア・グルジア戦争を21世紀の欧州での最初の19世紀型戦争にしているのは、イデオロギー的極性を伴わないパワー対立という特異要素である。赤軍が1968年8月に「プラハの春」を鎮圧するためにチェコスロバキアに侵攻したほぼ40年周年にあたることが証明している。グルジアへの懲罰的侵入はリメークではない。その条件、動機、必然、正当とする理由は異なっている。グルジアにおけるロシア軍の侵攻と勝利は、欧州のパワーポリティックスの中心へ回帰しようとするロシアの試みを表している。それは、21世紀初めの冷戦後の欧州秩序にしきりに挑戦しようとしている、生まれ変わった19世紀の大国としてのロシアの復活を示している。
しかし、HGウェルズの1895年の小説でのタイムトラベルの主人公が発見したように、より複雑な現実がゆっくり姿を現すにつれて、過去ないし未来の世界についての当座の満足は、あてにならないかもしれない。「新しい19世紀」は単なる昔の複製ではない。クレムリンは5日間の戦争、(より長く、より混乱した後でも)で勝者として現れたかもしれないが、長期的には、欧州政治を決定付ける特徴としての「勢力圏」を回復する試みでは、戦略的敗者になるかもしれない。
3重の失敗
グルジアの大統領、ミハイル・サーカシビルは、8月7-8日の夜、南オセチアでの軍事作戦を始めるにあたって、戦略的誤算を犯した。彼は賭けに出て、負けた。グルジアは、(1990年代初めのソ連後の戦争で、トビリシからの支配から自由になっていた領土)アブハジアと南オセチアを失い、軍事的インフラと急速な経済発展の希望も失った。コーカサスのイスラエルになるという2003年以後の指導部を駆り立てた野望は、裏目に出た。
2003−04年の「バラ革命」後に政権に就いた当初、サーカシビリは最初の任期(5年)のうちに、同国の領土保全を再び確立すると約束した。彼は彼自身を意識して中世のグルジアの王ダビッド、Agmashenebeli(建設王)にならった。それは、自己証明であり、実際、彼の大統領としてのモチーフであった。(彼の民主主義の建設や西側制度に同国を統合することについての愛想にいい演説を聞きたがっている、西側の首都にいる聴衆にとってではなく)、グルジア国民にとって、サーカシビリの主要な約束は、アブハジアと南オセチア(彼の統治の初めには、南西部の反乱地区であったアジャリアも)をグルジアの支配に戻すことであった。
ここで、タイムマシンが音をたてはじめる。なぜなら、熱に浮かされ、統制的で、イメージにあふれたサーカシビリ政権は、彼が19世紀の政治的野望と21世紀の政治スタイルとの異様な混合であることを示しているからである。この組み合わせが、南オセチアの首都ツヒンバリを攻撃するという決定を特徴的で説明可能なものにしている。サーカシビリの戦略は、セルビア人が住んでいたクライナでの1990年代初めのフラーニョ・ツジマン(クロアチア大統領―訳者)の戦略のように、現地の平和維持任務を国際化させることをロシアに受け入れさせるために、「既成事実」を作ろうとしていたように見える。それは苦し紛れの計画で、その結果は壊滅的なものであった。
サーカシビリは大きなへまをした。だが、彼の主な同盟者と彼の直接の敵対者もまた、愚かな行動をした。ジョージ・W・ブッシュのホワイトハウスは二重の誤りを犯した。サーカシビリ政権の真の目的を把握しそこなったこと、モスクワがトビリシに対して武力を行使する用意があることについて判断を誤った。デイリー・テレグラフ紙によれば、8月9日においても、米国国務省とCIAは、ロシア部隊はグルジア「本土」(すなわち、2つの「失われた領土」を除いたグルジア)には侵入しないという予想をしていた。
ワシントンから発せられた入りまじり、混乱したメッセージの政治は、ロシア・グルジア戦争の5日の間、続いた。その結果は、二重にはっきりしている。米国がロシアに対して影響力を持たないという事実、グルジアの領土保全を保証するというブッシュの修辞的約束は実際には修辞にすぎないという事実である。要するに、ブッシュ政権の危機管理は2つの世界で最悪であった。方向感覚がなく、また信頼性を失った。
ロシアもまた、重大な戦略的誤算を犯した。ツヒンバリへのグルジアの攻撃に対して、グルジア本土に侵入するという決定は、ロシアの行動が間違いなく国際的な厳しい非難を招くことを意味していた。政治的計画はなく、サーカシビリを排除する現地の政治的同盟者もなく、戦争後にコーカサスを調停する原則もないものであった。ロシアは、その軍事作戦を意味あるものにするための大きく、包括的な計画を何も示していないし、近隣の国や国際的なパートナーと接触できないでいる。ロシアは短期的には勝ったが、結局、グルジア戦争の最大の敗者であったということになり得る。
ロシアの戦略的リスク
確かに、ロシアの当座の軍事的成功は明らかである。クレムリンはロシアが実効的な(粗雑なものであっても)軍事大国として再び、機能できることを証明した。その戦争はロシアの国民にも支持されていた。1990年代の精神的外傷にまだ耐えている多くのロシア人にとって、この小さな勝利した戦争は、20年間の政治的屈辱を逆転させる、長い間待ち望んでいたものであった。短期的効果はウラジーミル・プーチンードミトリー・メドベージェフの正当性を強化する。
しかし、ロシア人にとって、この戦争の心理的側面を明らかにすることは、その19世紀的性格を際立たせることにもなる。問題になっていたのは、領土というより、国民感情であった。それは、19世紀の政治では、20世紀においてイデオロギーがはたしたのと、ほとんど同じ役割をはたしていた(どちらの場合でも、戦争を正当化し、引き起こすことがあり得る)。サーカシビリの火遊びの後、グルジアに侵攻したクレムリンの核心的な理由づけは、ロシアが再び、偉大な大国であると見せつけ、感じる決意であった。実際、サーカシビリ自身の目的も、領土と同時に、心理的なものと理解される。ロシアとの国境でのグルジアの主権を主張することである。
この意味で、2008年8月7-8日の後のクレムリンの行動は、熟慮された政治的戦略によって導かれたのと同時に、弱く、重要でないと見なされることに対する恐怖によって導かれていた。しかし、19世紀の心理は、20世紀のイデオロギーと同じように、国際政治における混乱の源にもなり得る。さらに、両者は意図しない結果の法則の影響を受けやすい。それは、勝利したグルジア戦争の後にロシアに当てはまるかもしれない。なぜなら、ロシアがこの勝利から姿を現した時、プーチンが2000年に政権に就いて以来、どの時よりも、世界からも、旧ソ連圏内からも、戦略的により孤立している危険があるからである。
(クレムリンがグルジアの大統領を嫌悪し、彼の失墜を見たいと思っていたことがはっきりしていたとしても)、8月8日に始められたロシアの攻撃がトビリシでの体制変革を、はっきりした政治的目標として持っていたかどうか依然、不明である。だが、ある程度まで、もっと重要なことは、クレムリンはとにかく、そうした体制変革を保証する政治的メカニズムを持っていないということである。クレムリンは、グルジア社会へ働きかけをするものを持っていないし、グルジアの親西側傾向に挑戦できる合法的政治勢力はない。ロシアはグルジアの領土を占領できるが、それは国際的孤立と西側との危険な関係悪化という代償をもたらすだけである。
ロシアがサーカシビリを追い落とし、トビリシに親クレムリン政権を樹立させることに失敗したことは、ロシアがバクー・トビリシ・ジェイハン(BTC)パイプラインを支配することができないということを意味する。従って、ロシアの軍事的勝利は、旧ソ連領域でエネルギー・ルートの独占権を樹立するというモスクワの野望に実際的な影響を持たない。実際、ロシアと西側の間の緊張が深まったことで、欧州の会社は恐らく、別のエネルギー・ルートを探す努力を増すであろう。これまで以上に、米国と欧州は「幸福は多数のパイプラインを意味する」と確信しているであろう。
ロシアはまた、グルジアとウクライナのNATOへの統合のプロセスを確実に止めることに失敗した。2008年12月のNATO首脳会議の結果を予測するのは難しい。8月19日のNATO緊急会議の結果は、グルジアの期待を勇気づけるものではなかった。だが、ロシアのグルジアへの挑戦に対する効果的な対抗処置として、NATO加盟国が同盟の拡大を求めることで合意することは十分あり得る。もしトビリシが優先課題を失われた領土の回復から、西側機関との結合へと転換することにするなら、グルジアのNATOへの統合は実際の選択肢になり得る。
NATO側では、領土保全を確保するのを助けるよりも、グルジアに「加盟行動計画」(MAP)の道筋を提示するほうが、今や容易である。この短く、不快な戦争で、トビリシが南オセチアとアブハジアの実効支配を確保する見通しは遠くなった。サーカシビリがセルビアの前首相、ボイスラブ・コシュトニツァのように行動するのをやめ、セルビアの現在の大統領、ボリス・タジクのように行動しはじめるというのは、非常に道理にかなっている。
大国の落とし穴
意図しない結果の法則は、ロシアに打撃を与えるような別の方向で働くかもしれない。米国のロシア政策は、手術による身元変えと同等のことをしつつある。数日のうちに、ジョージ・ブッシュの「現実主義者」はブッシュの「冷戦主義者」に変わった。コーカサスでの戦略的同盟者の見苦しい無能さを見せつけられて、ワシントンはモスクワのG8からの追放、世界貿易機関への加盟の希望の喪失、グルジアとウクライナのNATOへの加盟、2014年のソチ(アブハジアから海岸沿いにある)冬季オリンピックのボイコットを目指して圧力をかける「柔軟封じ込め」コンセンサスに移動しつつある。
ロシアにとってより差し迫った心配は、残存する欧州の友人の防衛である。ポーランドが米国のミサイル防衛網の一部を受け入れる協定を直ちに結ぶことを決めたことは、同国の国内強硬派がグルジア紛争を利用して、ロシアへの西側政策で優位に立つことができた典型的な例である。
ロシアはNATOの包囲について被害妄想を持っていた。だがその被害妄想は、最も暗い悪夢を産み出してしまったようだ。今後、米国のロシアの近隣国への支持は、その国の政権の性質ではなく、その国のロシアとの関係で規定されるであろう。中央アジアの専制的な国が米国と取引することに興味を持っているなら、その時期が到来した。
この点に関して興味深いことは、モスクワが軍事的に勝利した際に、旧ソ連圏のロシアの同盟国の沈黙と対抗国の対決的姿勢が対照的だったことだ。クレムリンが懸念するのは、ウクライナ(特に大統領)がサーカシビリへ無条件の支持をしたことではなく、ベラルーシの沈黙である。ロシア外務省がミンスクからの支持がないことに驚きを表明したその日に、ベラルーシの大統領、アレクサンドル・ルカチェンコは外務省に対して、「欧州連合と米国との関係改善に措置をとる」よう命令した。この立場は、ルカチェンコが後にソチを訪問した際に、モスクワの作戦を称賛する巧みな発言をして、部分的に和解した。
従って、ロシアのコーカサスでの戦争における軍事的勝利は、結局、「カラー革命」の短い期間でのロシアの政治的敗北よりも、同地域にけるロシアの戦略的利益を害するものになるかもしれない。その時期に、ロシアはウクライナとグルジアで威信と地位を失ったが、同時に、ロシアは旧ソ連圏で専制的指導者と共通の利害を見出し、同地域で反西側同盟を作るのを助けた。カラー革命は欧州連合が革命的、修正主義的パワー(revisionist power 訳注1)であるかのように見せた。それに応えて、ソ連後のエリートは現状を維持するように動員された。
だがいま、修正主義的パワーであるのはロシアである。ロシアが自国民を保護する権利という言葉を使うことは、旧ソ連諸国にいるロシア人少数派への見方を大きく変えるであろう。旧ソ連でのロシア人居留民の4分の3が、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシに住む。その3ヶ国はロシアにとって戦略的に最も重要であるが、旧ソ連圏での自国民の権利を守るために武力を使う権利があるというロシアの主張を最も恐れているであろう。ウクライナが、ロシアのパスポートを持った市民がセバストポリに何人住んでいるかの調査を始めたということは、驚きではない。ロシアが自決の原則をもてあそぶことは、ロシア自体内でも脆弱さを感じることが増すであろう。旧ソ連国家の中で、ロシアは唯一の多民族連邦であるからだ。
アレクサンドル・ドゥーギン(訳注2)は、ロシアの国家形成事業の中心にあるジレンマを鋭く明確に表した。彼の言葉によれば、現在の国境での、現在の政治制度でのロシアは、一時的な現象である。ロシアは、通常の民族を基にした国民国家になるためには、大き過ぎ、民族的に多様過ぎる。同時に、古典的帝国がするように裏庭を支配するには、十分に大きくなく、十分に強くない。ドゥーギンが言っていないことで、ロシアの政治の観察者には誰にも明らかなことは、現在のモスクワの指導部の19世紀的考え方は、旧ソ連の領土についての真の統合主義的(integrationist)事業の観点を排しているということである。
ロシアの「ソフトパワー」の欠如
戦争後の混乱の中で、ロシアのメディアとロシアのアナリストは、残忍な暴力の発生を調べ、それが同国の国際的な立場にとって何を意味するのか評価し、「情報戦争」でのモスクワの敗北について討議している。意見が一致することは、グルジア軍に対する攻撃は軍事的成功であったが、「宣伝の失敗」であったというものである。モスクワの宣伝マシンは、まったく無能であるとされている。
しかし、多くののロシア人が情報戦争での敗北として経験していることは、実際には欧州政治で影響力を行使しようとする、この19世紀型思考の政権が無力であることをさらけだしているということである。ロシアは5日間のグルジア戦争で、意味のある「ソフトパワー」を持っていないということを発見した。ロシアはポスト・イデオロギーの世界で、危険なまでに孤立している。ソ連の終わりと共産主義の死は、ロシアから普遍的な言葉と普遍的な魅力を奪った。それに代わるものは何も出現していない。
ソ連は邪悪な帝国であったが、真の「ソフトパワー」を持った邪悪な帝国であった。ソ連の戦車が1968年8月20-21日、チェコスロバキアに侵攻した際、少なくとも世界の共産党の一部は、それが社会主義の名目で行われたとふるまおうとした。ロシアのグルジア本土の占領は、この程度の見せかけの支持さえも引き起こさなかった。サーカシビリが戦争を挑発し、最初に攻撃したというロシアの正当性の主張は、ロシアの作戦でグルジアに与えたそのような破壊を正当化するのに十分とは言えない。要するに、ロシアの勝利は尊敬を勝ち得たが、友人は得られなかった。
「主権民主主義」を国家イデオロギーの地位に押し上げようとするクレムリンの試みは、部分的にしか成功しなかった。「主権民主主義」という概念は、ロシアにおける西側の影響を制限するのに役立ったが、世界的にはアピールしていない。この急造の概念では、主権は権利ではない。その意味は、国連での議席ではない。クレムリンにとって、主権は能力を意味する。それを持つことは、経済的独立、軍事力、核兵器、文化的アイデンティティを暗示する。ロシアの見方では、大国だけが真に主権たり得る。この主権についての見方は、欧州の小中国家の中で多くの信奉者を得られないであろう。
さらに、ロシアがグルジアのインフラの破壊を正当化するために、1999年のコソボ戦争で西側が使った人道的介入という言葉を借りようとしたのは茶番であった。それは、2008年8月までにいたるすべての期間でのロシアの外交的立場と矛盾した。そして、ロシアが戦争を始めたのではないとしても、それを待っていたという疑いを増しただけであった。ロシアがそうした言語上の借り物の衣装を使うと、その行動はより冷笑的で、悪意のあるように見えた。ロシア外相が民族浄化とハーグの戦争犯罪法廷について語り始めた時には、多くの観察者は、ジョージ・ケナンが、ロシアはその国境に属国か敵国しか持たないと言ったことを思い出した。
こうしたことで、ロシアがこの紛争で国連安全保障理事会で孤立し、G7が宣言を出し、国際世論の多くの部分がロシアの行動に同情的でないことは、驚くにあたらない。しかしながら、ロシアは世界での自分のイメージに気づいていなかった。これは、管理された民主主義を導入した代償の一つである。それは、すべてのテレビ局はORT(ロシア公共テレビ)のようであるという錯覚である。
ロシアが世界に対し、グルジアに対するその行動の正当性を納得させることができなかったことで、ロシアは世界舞台に戻るための計画を再検討するはずである。ロシアは、生まれ変わった19世紀の大国であり、それがポスト20世紀の世界で行動している。その世界では、武力と能力の変数は大国の地位や行動を規定する唯一の方法ではもはやない。「ソフトパワー」の欠如は特に、修正主義的国家(revisionist state 訳注3)になろうとしている国にとって危険である。なぜなら、ある国が今日において、世界の秩序を作り直したいと思うのなら、その国は依存と勃興しつつある列強の配置に依存し、国際世論の想像力を獲得できなければならないからである。
別の言い方をすれば、1990年代の規範的時期は終わったが、普遍主義(universalist)の魅力の必要は残っているということである。ロシアにとってのグルジア戦争の教訓は、ロシアが19世紀の国際政治の規定に捕らわれたままでは、21世紀の条件で可能なような大国にはなれないということである。ロシアは新しいタイムマシンが必要である。だが。世界もそうである。
*イワン・クラステフ ブルガリア・ソフィアにあるCenter for Liberal Strategies代表。バルカン国際委員会(座長・アマート元イタリア首相)の事務局長をつとめた。
訳注1 訳注3 ここでのrevisionism(修正主義)はterritorial revisionism、つまりrevanchism やirredentism(領土回復主義、戦争で失われた領土を回復しようとする主張)の婉曲表現
訳注2 ロシアの政治活動家 「新ユーラシア主義」として知られる現代ロシアの地政学者 「ユーラシア運動」の設立者
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文
(翻訳 鳥居英晴)
アブハズ人と南オセチア人の声を聞け グルジア紛争の解決 ジョージ・ヒューイット
- 2008/08/23(土) 17:17:13

2008年8月8-12日のグルジア・ロシア戦争の2日目、アブハジア沖の黒海でロシアの警備艇は、上陸しようとしていたと思われるグルジアの船4隻を沈没させた。それらの船の名前は不明であるが、グルジア政府が所有する軍装備品の公表されているリストー主にグルジアの西側の友人によって何年もの間にわたって供与された装備品ーには、Mazniashvili.将軍と名付けられた船があることは興味深い。
なぜ興味深いのか?なぜなら、Mazniashvili (Maznievともいう)将軍(訳注1)は、1918−21年の間にグルジアあったメンシェビキ政府のために、アブハジアから南オセチアにいたるまで、「戦禍」を広げたことで最もよく知られているからである。船にその名前を付けたことは、これら2つの地域の支配を確立するためになされた90年前の無慈悲な試みでの中心人物に対する、現在のグルジアの公式的な感情がはっきり示されている。それはまた、アブハズ人と南オセチア人にとって、1990年代初めの残虐な戦争でグルジアの支配からやっと手にした自由は、世界の注目と理解、尊敬を得るに値する、彼らの一体性を守る長い歴史の一部であるということを思い起こさせるものである。
これらの人々、またグルジア人だけでなく、ロシア人であろうと、米国人、同地域での最新の戦争に巻き込まれただれでもが、自分自身の歴史を持っている。彼らの所産の多くは、この世代で意図的に粉砕された(1992年の戦争でアブハジアの文化財が破壊されたことを指すー訳者)。2008年8月の短い戦争の教訓は、次のようなものである。1918−21年と1991−93年の紛争は2つのエピソードに過ぎず、紛争の連鎖は繰り返されることなく、断ち切られるとするならば、アブハズ人と南オセチア人の将来に関する決定がなされる場合には、彼らの声、彼らの選択が反映されなければならないということである。
政治的ブーメラン
グルジア・ロシア戦争についてのメディアであふれた評論は、強迫観念のような地政学的な計算によって特徴づけられていた。それは、グルジアと同地域に関してしばしばそうであるが、グルジアの「失われた」領土(もしそう見なされるなら)を、地球という将棋盤の上の軽率でイライラさせる駒にすぎないものとして、最初から見なしがちである。このため、アブハジアと南オセチアは、それ自体で重要であり、2008年8月の戦争に内在する問題の解決のための中心であるからこそ、彼らを参加させるべきだという議論と彼らの主張を真剣に検討することは有益である。
ミハイル・サーカシビリの屈辱という、こうした絶望的な日々にあっても、グルジアの政治状況の特筆すべき特徴は、グルジアの南オセチアへの侵攻(1990−92年)とアブハジアへの侵攻(1992−93年)がもたらした傷がいかに深いかについて、同国でほとんど認識されていないということである。いわゆる「凍結された紛争」(frozen conflicts)を解決するうえで前進がなされるためには、この時期においてグルジアが果たした役割について、同国が公式のレベルで責任を認めなければならない。
この見直しでの含まれる重要な点は、南オセチア人とアブハズ人がそれぞれの領土に関して、昔から主張している居住権を認めることである。1989年にトビリシで噴出した民族主義の時代に、ソ連後のグルジアの初代大統領になることになる男、ズビアド・ガムサフルディアは、オセチア人は1921年に赤軍が侵入したあとを追って、グルジアに現れたとさえ主張した。
それは昔も今も、神話である。いまは亡きイラン言語の専門家、Ilya Gershevitchは彼の考えとして、南オセチアの言語は北オセチアで話されている言語とは極めて異なるので、分裂は紀元前に起きたに違いない、とかつてわたしに語ったことがある。さらに、グルジアの「黄金時代」のタマル女王(在位1184年−1213年)は、少なくとも半分オセチア人であり、オセチア人の夫も持った。だが、そうした神話は―アブハズ人はアブハジアの先住民ではないと流布されているー緊張の時代には非常に危険なものになりえる。
グルジアでのソ連の崩壊の中で、南オセチアとアブハジアの知識人と生まれつつあった市民社会は、トビリシから発せられる彼らを狙った排外主義の修辞がもたらす危険に気づいた。彼らは、彼らの集団的、政治的利益を守るために民族フォーラム(南オセチアではAdamon Nykhas、アブハジアではAydgylara)を結成し、今日まで続く地域間のつながりを作った。
ガムサフルディアは、彼自身の神話―彼の一つおいた後継者であるサーカシビリも共有したーを信じて、南オセチア人をその領土(グルジアはそれをSamachabloと改名した)から排除することは簡単なことだと考えた。その結果は、1990年に始まり、1991年に拡大し、1992年春に終わった戦争であった。その後、ガムサフルディアは打倒され、軍事政権がトビリシを掌握した。1992年3月、軍事政権はソ連時代のグルジアの共産党のボスで、ミハイル・ゴルバチョフの下でソ連の外相になった、エドアルド・シェワルナゼを招いて、国を率いさせた。
ガムサフルディアとその武装支持者は、グルジア西部州のサメグレロ(ミングレリア、Mingrelia).にある基地から新政権に抵抗した。シェワルナゼは南オセチア人と妥協することを選び、両者は(ロシアの当時のボリス・エリツィン大統領の介入で)Dagomys(ソチ近郊の町―訳者)協定に調印した。合意の条項には、停戦を監視するために3者(グルジア、オセチア、ロシア)による平和維持部隊の項目が含まれていた。
その結果、1992年以降、静かな州都ツヒンバリに代表される南オセチアは、放置されたへき地となり、市民は仕事を求めてロキ・トンネルを通ってロシア連邦の共和国である北オセチアに行くしかなくなっていた。こうした状況は、シェワルナゼがグルジアを支配していた10年間続いた。サーカシビリが2004年に政権に就くと、変化し始めた。彼は、南オセチアとアブハジアをグルジアの支配の下に(2年間で)回復するという約束を民族主義的な優先課題にした。
彼の活動的、干渉的な態度の効果は、間もなく感じられた。紛争地域の境界線にあった現地の市場は、交易のために協力し、両者とも何の問題もなくやっていたが、「闇経済」の一部であるという理由で閉鎖された。言いなりになったあるオセチア人が、境界のグルジア側にある村を拠点に、南オセチアの親グルジア「政府」を率いることになった。
こうしたことは、うまくいかなかった。2008年8月の戦争の特異な側面は、2つの紛争地域のうち、より大きく、より繁栄し、より防衛されているアブハジアの問題よりも、南オセチアの「問題」の方がトビリシにとって管理し、解決しやすいであろうと長く思われていた期待を裏切ったということである。それどころか、サーカシビリの開拓プロジェクトは、南オセチアで失敗し、南オセチアはトビリシの支配からかつてないほど遠いものになっている。
戦争の愚かさ
サーカシビリが大統領に再選された2008年1月には、グルジアの最新の神話の作り手には、それはまったく違ってみえた。彼は再び、2期目の間に2つの領土を回復すると約束した。緊張が数ヶ月続いたのち、2008年8月7日から8日にかけての夜、何も知らないヒンバリに対するグラッド・ミサイルによる残忍な攻撃で頂点に達した。
サーカシビリは、グルジアの行動はロシアの戦車が入ってきたために対抗したものであると主張し続けているが、戦車が到着する前にロシアの平和維持部隊員15人が死んだことには触れていない。2008年の熱を帯びた数ケ月にロシアが計算したことの少なくとも一部は、世界にサーカシビリ政権の真の性格を見させるために自制しようとしたことであった。結果的には、そうした態度はロシアの平和維持部隊を救うことにならなかったし、ツヒンバリへの攻撃開始の事実を無視し、ロシアの対応を非難するのに忙しかった西側の指導者に対して、目立った効果はなかった。
しかし、南オセチアの州都を攻撃するという決定の愚かさは、発端が何であれ、サーカシビリだけのものではない。それは、サーカシビリの時代に強まったが、1990年代初めの重要な時期にすでに確立されていたグルジアに対する西側の政策と支援の幅広い形態と関係しているに違いない。
この点に関して重要な決定が、南オセチアでガムサフルディアの戦争が進行中であった時になされた。それは、ガムサフルディア派がシェワルナゼ派とサメグレロ(ミングレリア)で戦っている時であり、アブハジアに対する脅威が続いていた時であり、トビリシには合法的政権が存在しない時であり、グルジア全土で混乱が支配していた時であった。その時に西側は、ソ連の国内の同国を承認する適切な時であると判断した。
この決定は、ソ連の共和国(ユーゴスラビアの構成共和国と同様)だけを個別の国家として承認するという国際社会の恣意的なアプローチと一致していた。グルジアの場合、西側はグルジアがガムサフルディアの悪政にある時は、この方針を適用するのを避けたが、シェワルナゼがグルジアに戻るや否や、態度を変えた。「西側の友人」が政権に就いたのである。選挙は1992年10月まで予定されておらず、基本的な民主的合法性さえ主張できなかったが、西側の国家(英国のジョン・メージャー政府を筆頭にしたもので、旧ユーゴスラビアでの同じく悲惨な政策を思い出させる)は、シェワルナゼ政府の承認と外交関係の樹立に急いだ。
グルジアはこの時期に国際通貨基金と世界銀行、国連への無条件の加盟を果した。独立の権利を要求していたアブハジアにとっては、その結果は惨事であった。なぜなら、シェワルナゼは国連への加盟を、アブハジアへの戦争を始めることで祝ったからである。それは、この熱狂的なグルジア民族主義の大義へ、反対者たち(武装したガムサフルディア派を含む)を結集させるためであった。賭けは無数の破壊をもたらした。その多くの犠牲者には、アブハジアに住む数千人のメグレル(Mingrelian)人とグルジア人を含んでいた。それは13ヶ月続き、結果は長く不安定であった。賭けは失敗した。1993年9月30日にアブハズ人と彼らのコーカサスの同盟者によって、シェワルナゼの軍隊に屈辱的な敗北を与えた。それは、トビリシが、緑豊かで、豊かになる可能性を秘めた共和国(アブハジアのことー訳者)を失ったことを意味した。
1994年春、南オセチアをめぐるDagomys 協定と同等の停戦合意がモスクワで合意された。その時には西側の関心は、バルカンの西側が寄与した混乱に集まっていた。時代は変わるもので、西側は平和維持の責任をロシアに喜んで任せた。その結果、ロシア軍は、グルジアのサメグレロ(ミングレリア)とアブハジアの伝統的な境界であるイングル川近くの非武装地帯に沿って展開する3000人の平和維持部隊のほとんどを構成することになった。
こうして、アブハジアと南オセチアの間のつながりが深まり、静かな首都のスフミに代表されるアブハジアもまた、放置されたへき地となり、市民はどこかで仕事を探すか、(とどまった人々にとっては)破壊されたインフラと経済をできるだけ回復させるため、ロシアが提供した援助は何でも利用するしかなかった。
コーカサスの総督
グルジアのソ連時代の国境を承認することは、アブハジアの苦悩と南オセチアの苦悩の多くの源であり、グルジアの苦悩の源でもある。サーカシビリの失敗の影響がまだ出ている時にさえ、NATO事務局長と英国外相のまったくばかげた声明(グルジアのNATO加盟を支持するというものー訳者)が、(他の西側の指導者の間で)再び表明された。1990年代初め以来、2つの領土をめぐる戦争での明らかな過失にもかかわらず、危機のどの時点でも、「凍結された」紛争をめぐる議論でも、グルジアは国連加盟国に対して、領土保全の原則の順守を呼びかけることができた。それは事実上、グルジアは「国内」問題と厄介な人々に関しては、好きなようにできると言っているのと同じである。
それだけではない。1990年代、グルジアは「破たん国家」になるようにも見られたことがあった。シェワルナゼに統治された国は、あらゆる種類の援助も求めることができた。それには、分かりやすい、歓迎される経済投資だけでなく、もっと困ったことに、膨大な量の軍装備品や関連した訓練計画もあった(それは、9・11以後の時期と、ボリス・エリツィンの混乱した時代以後、ウラジミール・プーチンがロシアで一貫性のある政府と確固とした外交政策を打ち立て始めるとともに、急増した)。
グルジアはなぜそのような途方もない量の武器と軍装備品を必要としたのか?最も狂ったグルジアの指導者でさえ、ロシアとの戦争を始めることは考えないであろう(正直なところ、この判断は見直さなければならないかもしれない)。アゼルバイジャンは、バクー・トビリシ・ジェイハンを通るパイプラインの平和的管理でグルジアと利益を共有している。そのパイプラインは両国にかなりの富をもたらしている。グルジアとアルメニアは何世紀にもわたり、競り合ってきたが、軍事紛争を起こす可能性の兆しはない(グルジアのJavakheti地区のアルメニア人少数派の不満と貧困にもかかわらず)。グルジアと隣国トルコは敵対する理由がない。
結論は明らかだ。グルジアの軍備の標的は南オセチアとアブハジアであった。
その結末は、グルジアの軍事機構をだけでなく、指導者の自己権力の拡大と思い上がりを煽ることになった。彼らは、西側、特に供給者である米国は、南オセチア、アブハジアに対する支配を回復す
これが中国の首都での五輪の開会を前にしてのサーカシビリの醜悪な失態の背後にある一つの要素であったに違いない。
1990年代初めという極めて重要な時期に結ばれたアブハジアと南オセチアの間の絆は、相互の防衛協定を含んでいた。グルジア軍が2008年8月7-8日にツヒンバリを攻撃すると、アブハジアは、それをどのように実行するか決めなければならなかった。決定は下され、グルジア軍部隊を退去させようとした。同部隊は停戦協定に違反して、2006年7月、アブハジアの一部のコドリ渓谷上流に配備されていた。その部隊は、(南オセチアのモデルにならって)トビリシがすでに設立していた「アブハジア亡命政府」をそこに移した後に配備されていた。
コドリ渓谷上流へのその動きは、グルジアに第二戦線を開かせようとするものであり、アブハジアで新たな南オセチアの悲劇を繰り返すことを回避するためのものであった。アブハジアの陸軍部隊は8月12日の夜明けに渓谷に入ったが、ほとんどのグルジア兵は逃げたあとだった。真夜中までに、すべての地域は確保された。
その結果は意味深いものである。ロシアは南オセチアのグルジア兵から捕獲しものの中に、アブハジアの領土を段階的に確保していくグルジアの計画を描いた一連の地図を発見したと伝えられる。アブハジアは自力で、コドリ渓谷の中心で、sainpormatsio tsent'ri NAT'O-s shesaxeb (Information Centre about NATO)と書かれた額(.グルジア語と英語)を見つけた。
サーカシビリのテレビ演説は、南オセチアに対する事実上の宣戦布告したもので、彼の部屋には欧州連合の旗を見せびらかせている。グルジアはNATOの加盟国でも欧州連合の加盟国でもない。その象徴的な行動は、不協和のままの政治的機能不全の証拠である。
がれきの中の道
2008年8月の戦争の軍事的、政治的後遺症は、まだ決着したとするにはほど遠い。外交的なものが待ち受けている。ニコラス・サルコジによって折り合いをつけられ、ドミトリー・メドベージェフが受け入れた停戦合意が完全に実施されるようになると、西側は、ヨセフ・スターリンが引いた国境線による同国を承認した思慮の浅さを真剣に再検討する必要がある。国際法の根拠はコソボをめぐって変わった。それは事実上の国境でのグルジアを承認し、南オセチアとアブハジアの共和国を新しい国家として承認することによって、再び動かしえる。
この文章で概説された歴史を理解(1990年代初めの重要な出来事とそれ以来に起きたことすべてを含む)することが、トランスコーサスのこの部分に住むさまざまな人々の間での平和的な関係の基礎を築く唯一の方法である。
来るべき交渉は、アブハジアの戦争が終わったあと、逃れたり、追放されたカトヴェリ人(メグレル人とグルジア人)難民の定住など、ソ連後の戦争以来そのままになっている困難な問題と取り組まなければならない。多くの人たちが1993年以来、グルジアのさまざまな場所で惨めな状態に耐えてきた。トビリシの荒れ果てたホテルに何年も収容されていた人たちは、不動産開発のために立ち退かされ、Tsqneti(トビリシの北)の一部に住んでいた人々は、その土地がサーカシビリによって、グルジア国会議会の前議長、ニノ・ブルジャナゼ(西側では西側の支援者がサーカシビリにあきた場合、彼の後継者になるかもしれないと宣伝されている)に与えられと、再び強制的に退去させられた。
シェワルナゼとサーカシビリの政権の下で、難民が放置され、虐待を受けていた一つの理由は、グルジアの極めて困難な政治にある。彼らのほとんどは、メグレル人である。彼らはカタヴェリ語族に属するが、(ガムサフルディアなど多くの者が、グルジアの超愛国者になっているにもかかわらず)グルジア人によって遠ざけられてもいる(訳注2)。しかし、これはまた、外交的、政治的、そして経済的な進歩に重要になる可能性がある。なぜなら、独立したアブハジアに平和が確立されたら、少なくとも、こうした勤勉な人々の多くは、アブハジアで生活を再び始めることができるからである。
短く、むごい戦争の後の日々は困難であった。今後は多くの危険があるであろう。ソ連後の3人目のグルジアの欠陥のある指導者は、国に惨事をもたらした。民族主義の虚飾への西側の無謀な応援は、グルジアを新たな危機に導いた。これはグルジアの人々が解決するものである。一方、サーカシビリやMazniashvili将軍が何と言おうとも、南オセチア人とアブハズ人は別の計画を持っている。世界は彼らの言うことを聞くべきである。
*ジョージ・ヒューイット(George Hewitt) ロンドン大学東洋アフリカ研究所のコーカサス言語教授 アブハジアの言語と歴史研究の第一人者
訳注1 ウィキペディアによると、Mazniashviliは亡命するが、帰国を許された。しかし、大粛清の時に逮捕され、1937年、処刑された。
訳注2 グルジアは自国語では、サカルトヴェロ(SAKARTVELO)という。
「グルジア語の話者を狭義のグルジア人として、スヴァン人、メグレリ人を加えて広義のグルジア人とするが、グルジア語では、狭義のグルジア語の話者のみが、カルトゥリ人である。スヴァン語、メグレリ語の話者はそれぞれ、スヴァン人、メグレリ人であって、カルトゥリ人ではなく、カルトゥリ人、スヴァン人、メグレリ人を総称する固有の用語はない」(『コーカサスを知るための60章』)
「ミングレル人(Mingrelians)はグルジアの少数民族であり、主にグルジアのサメグレロ(ミングレリア)に居住している。また多くがアブハジアとトビリシに居住している。およそ18万人から20万人のミングレル人が1990年代初期に発生したアブハジア紛争とそれに続いたアブハジアからグルジア人を駆逐する民族浄化の結果アブハジアから追い出された。ほとんどのミングレル人はミングレル語とグルジア語の両方を話すが、グルジア文字のみを使用する」(ウィキペディア)
コーカサスの言語地図
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文
(翻訳 鳥居英晴)
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