中国政府への6つの提案 中国が理解されるために

  • 2008/04/20(日) 23:52:17






 筆者のジェームス・ミルワードは、米ジョージタウン大学の歴史学教授。中国、内陸アジア、清朝、新疆、モンゴル、チベットが専門分野。

 悲喜劇的なオリンピック聖火リレーは、世界に重大な問題を示した。混乱しまた、面白くもさえある側面に西側に焦点を当てている(ローラーブレードに乗ったフランスの警察や曇った日に黒いサングラスをした中国人の聖火防衛隊)一方で、中国ではヒロインは、パラリンピックのフェンシング選手で若い女性の金晶である。車いすに乗った彼女は、自由チベットを叫ぶ険しい顔をした抗議者が聖火を奪おうとするのを必死に守った。チベットの抗議とほぼ同じように、中華人民共和国の人々と世界一般の人々は、聖火リレーの出来事を大きく違って見ている。

 似たような食い違いが、中国新疆地区のトルコ系イスラム教徒のウイグル人によるテロ未遂事件についての最近の中国の発表にある。2008年1月、ウルムチでテロリストの細胞とされる場所へ踏み込んだこと、3月の航空機を墜落させようとした若いウイグル人男女の計画、4月の観光ホテルを襲撃し、外国人ジャーナリストを誘拐するウイグル人の計画などいくつかの公式報道はみな、外国メディアとアナリストには懐疑的に受け止められ、中国当局を激怒させた。

 情報が前例のないほどに交換されるようになったのにもかかわらず、中国が世界に開かれ、経済的統合が深まって20年以上たつのにもかかわらず、五輪の時期の約束にもかかわらず、世界の世論と中国の世論は正反対になっている状況がある。少し単純化しすぎると、世界の人々は中国人をチベット人、ウイグル人、ダルフールの人々、キリスト教徒などを押しつぶそうとしている人食い鬼と見なしている。中国人たちは、世界は中国人をやっつけようと躍起となっており、西側は中国を抑え込もうとしていると考えている。

 中国の検閲と宣伝は、中国の子供たちが学校で習う歴史と公民で始まり、中国の大衆の態度と大きな関係がある。もし中国に情報が自由に入り込むようになったら、ほぼ間違いなく意見の違いは縮まるであろう。だが、中国の外にいる人々も一般的に中国の問題について、あまり教育を受けていない。違った理由ではあるが、チベットのデモなどの出来事に対する反応も、間違った情報や情緒によって形づけられている。

 もし中国と世界が相互誤解というこの亀裂によって分裂してしまったたら、誰のためにもならない。その影響は五輪が終わった後も、いつまでも残りかねない。中国政府に情報の防火壁を壊すように要求したり、中国の子供たちに中国の歴史をもっと十分に教えるように要求することはほとんど効果がない。この時点でのほとんどの批判のように、これは反中国攻撃を重ねるように見えるだけであろう。

 けれども、不思議なことには、中国が中国について外国人にもっとうまく説明することができるようになりさえすれば、得るものは多い。中国はその行動に対して説得力のある理由づけを持っており、いじめる側のように見られたり、追い詰められていると感じる必要はない。だが、広報のことになると、中国当局は彼ら自身の最悪の敵である。

 どのようにしたら中国が国際的に自分自身をよりよく見せられるか、ここに6つの提案がある。それを採用する利点は(北京政府が雇うかもしれない新しい広報顧問からのアドバイスは別にして、どれより先に)、あらゆる点での誤解と緊張を減少させることであろう。

 「中国の聞き手に言っていることは、世界の人々に聞かれているということを忘れるな」

 最近まで、中国当局は中国の地方新聞さえ、外国人には読むことが許されず、10億人の中国人が読むことを許された「内部流通」メディアと見なしていた。そうした時代は終わった。放送、新聞、あらゆるものが現在はオンラインになっており、多くの外国人が中国語を理解するので、中国の国内ニュースは外に出ていく。中国で抑え込まれたニュースでさえ、外に出ていく。われわれはひとつのメディア世界に住んでいるというのは、月並みの考えであるが、真実である。

 「声明が英語ではどのように思われるか考慮せよ」

 強硬派指導者による痛烈な非難は、国内の中国人を満足させるためのものかもしれないが、そうした言辞は英語に訳されて放送されると、暴力的で、ヒステリックでさせある。チベットの張慶黎党書記は、ダライ・ラマを破廉恥にも「テロリスト」と呼んだ。新疆の王楽泉党書記は2008年3月9日の記者会見で、「こうしたテロリスト、妨害工作者、分裂主義者は、誰であろうと断固として打ちのめされるであろう」と叫んだ。もし彼が単に「阻止される」とか「逮捕される」と言ったら、もっと有効であったであろう。「打ちのめされる」とか「粉砕される」などといった言葉は、中国政府は本質的に暴力的であるという印象を与えるだけである。(確かに、ブッシュ大統領もカーボーイの威張った態度で同じようなことを言うことが多い。だが、ここでわたしの意見を終える。彼の世界像は見習うものがない)

 同様に、中国の多くのスローガンは奇妙に聞こえ、英語ではさらに悪く聞こえることに注意すべきである。"The Three Evil Forces"(3つの邪悪な勢力)はそのひとつである。"the Dalai Lama Clique"(ダライ・ラマ集団)もそうである。それを"splittism"(分裂主義)と呼ぶべきではない!その言葉は恐らく、下手な翻訳からきているのであろうが、主に中国政府の英語メディアで中国の事情だけで使われる。"Separatism"は同じ意味であるが、同じような状況が他国で起きている時に使われる言葉である。

「領土問題について古い、無理な歴史的議論を用いるな」

現在、中国の国際的PRで困難な事態を起こしているチベット、新疆、台湾の問題は、終局的に主権の問題に行き着く。しかしながら、今日の世界で、チベット、新疆での中華人民共和国の主権に異議を申し立てている政府や結論はない。亡命チベット人、ウイグル人グループでさえ、独立国の要求はやめて、「自治権」と文化の保全に焦点を当てている。台湾に関しては、世界は辛抱強く「ひとつの中国」の線に従い、海峡両岸の人々による問題の解決を待っている。

中世のチベット王が中国の王女と結婚したという情報で、チベットにおける政策を正当化する必要はない。米国の人々は間違いなく、そのような昔に起きたことについて関心を持っていない。中国の外のほとんどの人々は王女の議論を、正直に言って、ばかばかしいと見なしている。英国の王族は、先祖はドイツである。しかしそれは、ロンドンがベルリンのものであることを意味するであろうか。また、7世紀に中国の王女を迎えた後、チベット人は8世紀に中国の首都を破壊したということを指摘する歴史家もいるであろう。このように、王室の結婚はチベットの中国への服従を証明することにはほとんどならない。

 同じように、中国とチベットを征服したモンゴル人が実際には中国人であり、13世紀のモンゴルのチベット支配は実際には中国の支配であったと主張することは、屈曲した、簡単に反論される議論である。同じことが、新疆は古代から中国の一部であるとする主張にも言える。それは、その地域に中国の存在がなかった千年間(8世紀から18世紀まで)の途切れを無視している。(Eurasian Crossroads: A History of Xinjiang  C Hurst, 2007参照).

 「もっと最近のより現実的な歴史的先例を考慮せよ」

 他方、清王朝は、特に18世紀には、PRと分離主義の問題の実際的な解決に役立つかもしれない先例とモデルを提供している。清は、北京が中国の中心的省だけでなく、チベット、新疆、モンゴルそれに台湾の統治ないし、一種の安全保障の管理をした時代であった。けれども、非常に違った行政システムが違った場所に適用された。帝国は、言語的、文化的、宗教的多様性に対して、非常に寛容であったという特徴があった。

 1950年代にも、中華人民共和国は実際にはともかく、原則として、非漢民族の少数民族に自治権と文化の保全を与えた制度を始めた。今日、トランスナショナリズムについて多く語られ、国民国家を補完する新しいモデルが探されている中、多民族国家によって突きつけられたイデオロギー的、政治的課題へ、新しいアプローチが地球規模で必要とされている。中国は、「未来を振り返る」ことができ、歴史的正直さと本当の国家的誇りでもって、チベット、新疆、香港、台湾などでの自治権と文化の保全の問題に対して創造的な解決策を作り出すために、清王朝と初期の中華人民共和国の先例を参考にできる。西洋の考えで出てきた国民国家の問題を、中国の発想した概念で解決したらどうだろうか。実行可能な中国モデルは他の国でも採用されるかもしれない。

 「中国が問題を抱えていることを否定しないこと。そうではなく、それらはいかに他の国の問題と似ているかを見よ」

 中国は規模において類がないが、環境汚染、汚職、社会の最も貧しい成員のために経済成長と福祉のバランスを保つという問題を抱えていない国があるであろうか。チベット人やウイグル人との紛争でさえ、中国の歴史的事情から生じているものだが、類似のものはどこにでもある。 民族・宗教の多様性は欧州、米国、オーストラリア、その他の西側民主主義国で難題を突き付けている。インドも帝国の遺産からくる分離主義の重大な問題を抱えている。しかし、強引なやり方にもかかわらず、アッサムやカシミールへの対応をめぐって、中国がチベットや新疆をめぐって受けている国際的な非難のような種類のものは受けていない。その違いのひとつの理由は、インドの開放性と活発な報道でそうした問題を幅広く議論しているからである。

 2008年3月末、新疆のホータンで数百人のイスラム教徒の女性たちが街頭に繰り出した。官庁でスカーフをかぶることを制限しているためのようだ。中国のメディアはこれを報じていないが、ニュースは外へ流れた。一般の公共の場所で、スカーフをかぶることを制限することは良いことだと考えるのは、ひとつの考えである。トルコとフランスは同様の方針をとっている。なぜそのニュースを隠すのか。多文化的ではあるが公式には世俗的国家における、宗教的象徴の居場所をめぐる世界的な議論になぜ加わらないのか。勝手に世界を敵に回し、中国を他と違うものするのではなく、そうした問題を率直に認め、良識ある配慮をすることによって、他の大きな国と同じ立場に立つことができる。

 「記者に報道をさせよ。透明性が信頼性をうむ」

 中国内である程度、通達を管理することができるかもしれないが、検閲された宣伝ニュースの結果、国際的には信頼性を欠くことになる。これが、西側メディアがウイグルのテロの脅威の主張やダライ・ラマによって扇動された少数の者を除いて、すべてのチベット人は幸福であるという主張に懐疑的である理由である。SARSの発生を隠したことは、中国の世界的なPRにとって打撃であった。発生それ自体の事実より悪かった。

 一方、輸出されたおもちゃ、医薬品やその他の製品の安全についての中国の比較的に開かれた、協力的な対応は、そうした事実が明らかになった以降の中国の「ブランド」への損害を限定するのに役立った。自身の宣伝を信じることは、問題を悪化させるかもしれない。中国の中央当局は、チベット人の不満の奥行と範囲について、先月に爆発するまで分からなかったのかもしれない。宣伝と通達管理はこのように、ある程度の利点を与えることができるが、真実は露見する。真の知識は、真の力となる。国内と外国のジャーナリストや学者を排除し、悪魔扱いするのではなく、耳を傾けるなら、中国はもっと良い状態になり、世界全体からより大きな尊敬を得るであろう。

 北京よ、冷静になれ

 こうした6つの点はより簡潔に要約できる。

「自信を持ち、正直であれ。防御的、秘密主義的になるな」

 明らかなことを徹底的に否定すること、敵意に満ちた言辞、苦しい歴史的主張、外国人が問題を起こしているという被害妄想的主張、そうしたものがすべて中国を悪く見せている。中国が悪く見える必要はない。さらに、世界は中国を悪く見る必要はない。中国は誇りと自信を持つ多くのものを持っている。貧困の減少という前例のない記録、驚異的な経済成長、輝かしい新しい建築、高い水準の教育、宇宙計画、何兆もの外貨準備、浪費的米国人のねたみである貯蓄率、五輪で金メダルをたくさんとるであろうこと。長い歴史と栄光ある文化は言うまでもない。

 確かに中国は問題を抱えている。問題を抱えていない国があるであろうか。だが、誰もチベットや新疆を中国から取り上げようとはしていない。こうした地区での騒乱を、自制でもって、また、政治家らしい「怒りではなく悲しみ」という雰囲気で対応し、こうした騒乱の裏に潜んだ経済的、文化的、政治的問題を否定するのではなく、解決しようとする関心を示せば、いじめる側のように見られるのではなく、世界から理解と同情を得られるであろう。

 最後に、金晶や他の中国人の聖火のランナーを守ろう。そうでなければ、五輪聖火を守っている「人民武装警察」隊は呼び戻すべきである。(Rowan Callick, "Torch guardians from Tibet crackdown unit ", The Australian, 16 April 2008参照) 国際五輪委員会にその聖火の安全について心配させよう。外国人警官に外国人の聖火ランナーを襲う外国人抗議者と格闘させよう。でなければ、中国人がデモ隊を殴る写真がさらに世界中のメディアにあふれることになる。せめて、警備隊からチンピラのようサングラスを外させよう!

本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 

原文

(翻訳 鳥居英晴)


中国とチベット 真実の道

  • 2008/04/18(金) 15:35:49




 筆者の王力雄は北京在住の作家。3月22日に29人の中国の知識人がチベット問題に関して12項目の声明を発表するのを組織した。著作に「黄禍」「天葬」。夫人はチベット人作家のツェリンウォセWoeser。原文はウォールストリート・ジャーナル(3月28日)に掲載。プリンストン大学のPerry Linkが翻訳。




 チベットで最近起きた騒動は20年前に起きたことの再演である。1987年10月10日、ラサにある中央の寺院の周囲のある有名な市場、バルコルを僧侶が平和的にデモをしていた時に、警察が彼らを殴り、逮捕し始めた。僧侶を「宝物」と見なす普通のチベット人にとって、その光景は、我慢がならないものであった。それ自体がそうであるばかりでなく、チベット仏教徒が長年にわたり抱いていた不快な記憶を刺激したからであった。(Tubten Khétsun, Memories of Life in Lhasa Under Chinese Rule Columbia University Press, 2008参照)

 怒った数人の若い男たちがバルコル警察に石を投げ始めた。群衆がそれに加わり、火をつけ、車を倒し、「チベットに独立を!」と叫び始めた。これは3月14日にラサで目撃されたこととほとんど同じである。

 こうしたことが繰り返されることの基本的な原因は、チベットの僧侶の心の内にある苦しい葛藤である。中国政府が彼らの精神的指導者、ダライ・ラマを非難するように要求すると、僧侶はそれに従う(それは深い精神的信念を犯す)か、抵抗する(それは、政府登録を失い、僧院から追放されることになりかねない)かの選択を迫られる。

 時々、僧侶は彼らの苦悩を表現するために平和的なデモをした。彼らがそれをやると、不安な中国政府は、「緊急の局面」での「不安定な要素をなくそう」として、暴力的な抑圧で対応した。これがチベット人からの暴力を引き起こす。(Robert Barnett & Shirin Akiner,

 数十年にわたり、チベットをなだめる中国政府の政策は、経済発展の魅力と武力で脅すことを組み合わせることであった。いままでの経験は、こうしたやり方はうまくいっていないことを示している。("Skewed gains", Economist, 10 April 2008参照)

 チベットに平和をもたらす最も効果的な道は、ダライ・ラマを通じたやり方である。ダライ・ラマのチベットへの帰国は多くの問題を直ちに軽減するであろう。現在の敵意の多くは、中国政府のダライ・ラマに対する雑言の直接の結果である。チベットの僧侶にとってダライ・ラマは比べることができない高尚な地位にある。僧侶にダライ・ラマを非難するよう要求することは、両親を非難するよう要求するのと等しい。

 僧侶を殴り、僧院を閉鎖することが、当然、市民の暴動を引き起こし、市民の暴動がこのように生じ、暴力的になることは、驚きではない。

 こうした単純な真実がどうして、明らかでないのか。北京で引退しているチベット人のプンツォク・ワンギェルは長年にわたり、チベットでの有力な共産主義者であった。彼によると、「反分裂主義」の教義が北京の中央とチベットで宗教と少数民族を扱う中国当局者の間で根付いているという。こうした人々は、反分裂主義にキャリアを積んできたので、面子を失うことなく、その考えが間違っていると認めることができない。また、彼らは権力と地位を失うことを恐れている。(Isabel Hilton, "Ditch the tatty flag of nationalism", Guardian, 12 April 2008参照).

 
 何でもうまくいかないことに対する決まり文句は、「敵対的な外国勢力」である。それは、どのような厳しく、理不尽な抑圧を正当化する敵である。「反分裂主義」という、もともと空虚な言葉は際限なく繰り返されると、一種、確固としたものになる。キャリアはその中でつくられ、それに挑戦することは不可能になる。


 わたしはダライ・ラマの「中道」の支持者である。外交と防衛を除いたすべてでチベットの自治を意味する。 この取り決めは、終局的にはチベット人が自身の指導者を選ぶことを意味しなければならない。これは現在のあり方からは、大きな変化である。チベットは「自治区」と呼ばれるが、実際にはその役人は北京で任命され、彼らの個人的な利益と共産党の利益に関心を集中させている。チベット人は、こうした政府と自治の間の違いをはっきり見ることができるし、偽の自治を支持する訳がない。

 これが無理難題であるとしても、チベット問題の最終的解決は、中国の政治制度そのものの民主化でなければならない。真の自治は他にありようがない。

 中国政府は、チベットにおける長期的な戦略がなぜうまくいかなかったのか調べ、何かをすべき時である。もし賢明なやり方がなされないと、古い問題が残り、「新彊ウィグル自治区」のようなところで続くことは間違いない。

 本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .

原文


(翻訳 鳥居英晴)

「宗主権」から「主権」へ チベット支配に西洋概念を流用した中国 

  • 2008/04/08(火) 22:23:49





2008年3月のラサなどで、チベット人の抗議活動が急にエスカレートすると、中国はチベットに対する主権(sovereignty)を改めて強く主張する言辞を用いる一方、チベット人は自決権(the right to self-determination)の主張で反論した。こうした両者の立場は、正当性を立証するための歴史的な参考文献と事実が決定的に依存している。だが、歴史はどちらの側に対しても、どこまで支持を与えるであろうか。

 この問題へのアプローチのひとつの方法は、チベットめぐる現代の政治的主張を、中国とチベットによる主権という概念の使用を考慮に入れて吟味することである。そうした読み解きは、両者の政治的主張を複雑化すると言われるかもしれない。たとえば、20世紀初め、チベット人は中国国内の内戦に乗じて、中国人の役人と軍隊を追い出して、彼らの国を事実上(de facto )の独立国にした。そうした状況は、1913年から1949年まで続いた。

 しかし、この期間にチベットは独立国家として広い承認を得ることはできなかった。政治的支配権(political supremacy)という中国の法律上(de jure)の主張は疑問を持たれなかった。この意味において、中国はチベットの領有について歴史的、法律的に正当な主張を保持した。

 けれども、中国のチベットに対する政治的支配は絶対的なものではなかった。チベットは中国にとって、特別の場所を占めていた。中国の皇帝は仏教徒であったことが多く、仏教徒のモンゴル人をなだめるうえで、チベットのラマは役に立つ同盟者であった。その関係は、檀徒と僧侶の関係に似ていた。それは、宗教的、象徴的、政治的な内容をもったものであり、主権とか独立(independence)といった絶対的な用語とは異質なものであった。( Gray Tuttle, Tibetan Buddhists in the Making of Modern China参照)

 絶対主権という欧州の概念を中国が使用することは、この関係に特別の負担を与えた。それはそれ自身、二つの要素の産物であった。つまり、20世紀初頭における中国の民族主義の台頭と、欧州の語彙を使って中国とチベットの関係を名づける英国領インドの試みであった。

 この意味において、中国のチベット支配は、二つの異なった帝国の軌跡(ひとつは中国、もうひとつは西洋)を通じて理解しえる。中華人民共和国は、チベットに対する支配を合法化するために、歴史的な帝国のつながりに主に焦点を当てる一方で、主権という概念を用いている。主権という近代的概念は、帝国主義と非植民地化を通じた欧州の普遍化の産物である。そのことは、近代チベットを「記述」するうえで、西洋の帝国主義者の軌跡の重要性を示している。

重要な変容

 チベット人の国民性・民族性(nationality/ethnicity)は非常に早い段階から、漢族、回族(すべてのイスラム教徒に用いられる)、満洲族、モンゴル族の範疇とともに、近代中国人の国民意識の中核にあった。一方、西洋(欧州、米国、この文脈では日本の)帝国主義の衝撃と、「偉大な連続した文明」としての中国という自覚が組み合わさって、中国の民族主義は仮想の集合性に対するどのような挑戦に対しても自意識過剰になった。

 こうして、チベット人は、近代中国の民族主義、1950年の軍事的「解放」と1951年の「17ヶ条協定」より以前の国民国家の不可分の部分になった。もっと広く言うと、今日の中国政権は、支配を合法化する主要な手段として民族主義を利用している。資本主義的な経済の運営に専制的な支配を組み合わせているので、チベットであれどこであれ、民族の民族主義(ethno-nationalism)が政治的形態をとることについては、過度の猜疑心を持たざるを得ない。

 チベットにおける英帝国主義の活動も、中国のチベットに対する態度の変容で重要な役割をはたした。特に、1903年から1904年のヤングハズバンド大佐の率いる軍の侵入により、中国のエリートはヒマラヤを越えた南からの敵対的な勢力への脆弱性を認識した。20世紀前半での英帝国の政策の最も重要な側面は、「中国の宗主権(suzerainty)−チベットの自治権(autonomy)」という方式であった。だが、チベットの政治的地位につてあいまいさを助長するうえで、この計算された戦略的偽善は長く続くものではなかった。

 1940年代後半はこの点に関して、重要な時期であった。英国は1947年にインドから撤退した。内戦での共産主義の勝利は1949年以降、中国で安定した政府が出現したことを意味した。同時に、そうして出来事は、「中国の宗主権―チベットの自治権」の方式の文脈が変容させられたということを意味した。20世紀の始まりから中国はチベットへの主権を維持していたが、いまや、この主張を実行し、チベットを軍事的に「解放する」(中国はそう見る)立場にいた。インドにおける帝国の終わりとともに、英国はチベットを戦略的に重要なものとは見なさなくなった。

 独立の幕開けにあったインドは、チベット問題を地域の英帝国主義の遺物と見なす反帝国主義の民族主義に駆り立てられていた。その結果、インドが画定した国境と考えたものは、実際には英領インドとチベットの間のシムラ協定(訳注)の産物であっと認識することなく、インドは中国のチベット支配を受け入れてしまった。(仮調印後、中国はそれを不平等条約だとして拒否した)。こうして、インドがチベットを中国の一部であると認めたことで、両国間の国境問題に道を開いた。

 1940年代後半になって、チベット人は遅ればせながら独立した地位の確認のために国際的な支持を求めようとしたが、失敗に終わった。中華人民共和国はチベットを自治区ではあるが、中国の不可分の一部として地政学的に記述することを、欧州の憲法の武器庫の中から最も強力な武器のひとつ、つまり主権という概念でもって完成させた。チベットの地政学的なアイデンティティは「宗主権―自治権」から「主権―自治権」に変換された。主権という概念がその利益と野望に最も役に立つことを発見したのはチベットではなく、中国であった。

歴史の利用

 「チベット問題」が主権と自治権という競合する概念によって、どのように組み立てられていったのかをみてみると、ポスト植民地世界で政治的問題が解決困難なのは、長年の歴史的憎悪や「本質的な」文化的違い以外の要素によるものであることがはっきりする。主権や民族主義という概念はもともと西洋のものであったが、非西洋の関係者は、それを彼ら自身の政治共同体の観念を変容するために流用してきた。(この議論のさらなる発展のためには、わたしの著書Geopolitical Exotica: Tibet in Western Imaginationを参照のこと)

 この事業では、「伝統」は近代的国家である状態(statehood)の主張を支持する方便として利用される。非植民地化の重要な時期に敗れたチベット人のような人々は、現存する支配国家が分裂するか、他の大国が既成国家からの分離を支持しない限り、分離した国民国家として認められるように、納得させる主張を唱えるのは困難になる。

 チベットの場合、こうした条件のどちらも可能性はない。このことは、ダライ・ラマの指導のもとにある海外にいるチベット人は、術策の余地がほとんどないということになる。彼らの苦境の一因は、中国が主権という語彙を流用する中で、西側は近代チベットの帝国的な記述を通して、中国の同盟者であったということである。

絶対的なのもの限界

 チベット問題を歴史の文脈にあてはめることは、現代の政治的議論の背景の説明を助けるうえで重要である。歴史というものが現在の立場を支持するためのもの以上であるなら、前向きのとなる要素を示すかもしれない。たとえば、英帝国が介入する以前は、中国とチベットの関係は相互利益のために便宜を図ることが多かった。チベット人は中国からの政治的圧力を通常、感じなかったし、(それを「独立」と呼ぶことなしに)かなりの自由があった。一方、中国は(その地区に多く投資する必要なしに)全体的な政治的支配を認めた。

 ある時には、国際的なシステムと個々の国家は、主権という絶対的な概念は、ためになるより害を与える可能性があるということを認めなければならないであろう。これはまた、中国内におけるチベットのために、人間的で効果的な解決策への道を開くであろう。当分の間は、中国政府が次のように自覚することが望まれる。意見の相違と抗議を許容する体制は永続的な解決策を産み出しえるが、その市民に永久に疑いを抱いたままの体制はそうした解決策を産み出すことはできない。

*ディベシ・アナンド 英国のウエストミニスター大学民主主義研究センター准教授。ポスト植民地の国際研究、中印関係、中国、チベット、インドを研究。


訳注 シムラ条約 1914年に英国とチベットの間で調印された。「チベット本土は中国を宗主とする自治国家であること、中国のアンバンはその階級と地位にふさわしい軍隊の護衛とともにラサヘ戻ること、中国と英国はチベットの政治に何ら介入しないことなどが三者によって賛同されたが、チベット国境の問題で見解の相違が大きく、協定不可能に」(Wikiwiki Tibetan Lab) アンバンとは中国からの大使のような役職。注記において、チベットは中国領土の一部であると理解されている。英全権代表ヘンリー・マクマホンは、インド領の東部国境線を北上させる条項をチベットと締結。この国境線(マクマホンライン)が元で1950年代後半、中印国境紛争が表面化した。

【宗主権】 他国の主権を従属的に制限する権能。国家が独立する過程で、本国が独立する国に対してもつ場合が多い。

【主権】 (1)国家の統治権。他国の意思に左右されず、自らの意思で国民および領土を統治する権利。領土・国民とともに国家の三要素をなす。 (2)国家の意思や政治のあり方を最終的に決定する権利。
「広辞苑」より。

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(翻訳 鳥居英晴)

汎チベット民族主義の時代の到来

  • 2008/04/06(日) 23:48:08




 最近のチベットでの騒乱の報道に関して、西側メディアが明らかに反中国に偏向していることに中国の市民が不満を持っていることは理解できることだ。2008年3月14日のラサでの暴動では数人の罪のない中国人が死亡し、多くの財産と仕事を破壊した。しかし、中国市民は抗議活動の原因となったものに目をつぶるべきではない。

 中国国内で混乱が起きるといつも、政府の反応は常に本能的に、責任を「中国の内政に干渉する」外部の反中国の勢力のせいにする。だが、チベット高原全土で起きている現在の暴動と抗議デモの波について、ダライ・ラマが直接的な役割を演じていないことは明らかである。むしろ、チベット人のダライ・ラマの帰国を求める強い願いを、中国政府が拒否していることが現在の騒乱の根本原因である。

歴史的瞬間

 この抗議活動が、このように激しく、民族的に敵対する様相を帯びるようになったのは、急速な経済発展をしているチベット高原の多くの部分で、チベット人が先祖代々の祖国で、急速にかつ不本意に少数派になっているためである。同じような形で、中国内蒙古の「自治区」でモンゴル人がすでに、ごくわずかな少数派になっている。中国人の移住者が数で上回るようになれば、チベット人の民族主義は必然的に見込みのない時代錯誤的なものになり、チベット人は中国が彼らに与えた地位、つまり祖国中国の「大家族」の不可分の一員としての地位を受け入れざるをえなくなるであろう、ということを中央政府は十分承知している。

 チベット人自身も、彼らの土地への移住者の流入と中国の経済的企業体の設立が、彼らの文化を続けていくうえでの最大の脅威となっていることに敏感に気づいており、そうしたものが抗議活動の主要な標的になった。物質的な生活水準が上がったにもかかわらず、高原全土のチベット人は植民地的に権利が奪われていると感じており、伝統的文化では、生活に価値と意味を吹き込んでいた、かつて神聖で生き生きとしていた環境が変わってしまったと感じている。

 自然発生的な抗議行動が、ラサからアムドとカム(四川省、甘粛省、青海省)の境界地域にいたるまでのチベット高原全土で起きたという事実は、汎チベット民族主義の時代の到来が遅ればせながらやってきたということを示している。過去においては、チベット文化世界全体を示すのにはカワチェン・ジ・ユル(「雪の国」)という言葉を除いて、チベットに名前はなかった。

 「チベット」という名前が由来するチベットの名前、Bod(p�と発音する)は、ウとツァンの中央チベット地域だけをさし、チベットの文化言語地域である、人口の多いカムとアムドは除かれていた。カムとアムドの統治は緩んでいて、伝統的に多くの独立、半独立の小国の間で分割されていた、それらは連合的な僧院生活の制度を通じて、中央チベットといくらか文化的、社会的に結合されていた。

 実際、汎チベットのアイデンティティの感覚を無意識のうちに促進させたのは中国共産政権の到来であった。それは、漢族と回族(イスラム教徒)の中国人という形の「他者」との出会いと、中国共産党の民族政策の実施への反応であった。その民族政策はソ連のモデルに基づいたもので、すべての地域のチベット人は、ひとつのチベット民族として分類されている。それはまったく正しい分類であった(今日では、nationality民族は中国政府の文書では、ethnic group「族群」と訳されていることが多い)。

 その結果、四川省の地域の約50%、青海省の80%以上、甘粛省のかなりの部分が、いわゆるチベット自治州、自治県として組織されている。2008年3月中旬以来、抗議行動と暴動が起きているのは、こうした地域である。

 極東アムドでのチベット人がチベット国旗を掲揚している光景(カナダのテレビが撮影した)は、チベット人の民族意識の進化において歴史的な瞬間である。なぜなら、チベット「国」旗は実際にはダライ・ラマ13世(1895−1933)の治世の時に当時のできたばかりのチベット軍の軍旗として導入されたものであったからだ。その軍隊はチベット世界のこうした遠い部分に支配を及ぼすことはなかった。事実、中央チベット政府の軍隊は、19世紀後半と20世紀前半において、東チベットではかなりの疑いと反感で見られていた。チベット人はいまや、大チベットという概念を受け入れる準備ができているようだ。7世紀と9世紀の間のチベット帝国(訳注1)の期間以来、政治的表現として大チベットという概念はなかった。

政治的見通し

 けれども、中国内でチベット地域の政治的統一を求めることは、中国国家にはきわめて脅威である。チベット地域のそうした行政的統一を求めた初期の者は、カム出身のチベット人共産主義者、ババ・プンツォク・ワンギェル(訳注2)であった。彼は1951年のチベットの中国編入に力を尽くした。旧政権のもとで扇動したため、チベットから追放されたババ・プンツォク・ワンギェルは1950年から1951年にかけて、人民解放軍をチベットに導いた。彼は捕獲されたチベット軍のアボ・アワン・ジグメ司令官(訳注3)を取り込むうえで重要な役割をはたした。アボ・アワン・ジグメは後に、チベットにおける中国支配を正当化する最も名高いチベット人となった。

 彼は当時、中国政府と北京で1951年に17ヶ条協定に調印したチベットの代表団との間の重要な仲介者であった。その協定は今では都合よく忘れ去られているが、チベットのために1国2制度を銘記したものであった。彼はまた、ダライ・ラマが1954年から1955年にかけて中国を6ヶ月間、旅行した時に主任通訳を務めた。当時、若きダライ・ラマは毛沢東と中国の共産主義者に非常に感銘を受けて、中国共産党に入党を求めたほどであった。

 けれども、こうした重要な出来事と共産中国への編入に彼がはたした歴史的な役割にもかかわらず、ババ・プンツォク・ワンギェルの破滅のもとになったのは、中国内のチベットの言語的、文化的地域の統一という彼の願望であった。1958年に彼は逮捕され、「地方民族主義」の罪で訴追され、18年間、独房に入れられた(ネルソン・マンデラよりも長い)。

 現在のチベットの抗議活動は、軍事支配を一時的に敷くこと、チベットの宗教に対する支配を強めること、チベット高原の中国化をさらに強めることしかもたらさないであろう。けれども、チベット人の間の敵意と一触即発の不満はおさまることはないであろう。チベットにおける現在の騒乱を、いわゆる「ダライ集団」のせいにすることによって、中国政府にとって、チベット人の不満と政治的疎外感が続くことは確実である。

 チベット文化の世界全土で、亡命している精神指導者とかかわりを持ちたくないと思っているチベット人は、ほとんどいないからだ。中国側に政治的な意欲があるならば、チベット問題は解決しうる。だが、ダライ・ラマを悪魔化し、チベット人の願望に一歩も妥協しないでいるなら、中国は中国西部のこの広大な地域での厄介な民族関係を必ず悪化させるであろう。

*ジョージ・フィッツハーバート オックスフォード大学のチベット研究学者

訳注1 吐蕃(中国名)のこと

訳注2 Bapa Phuntso Wangye 同氏の伝記である阿部治平著「もうひとつのチベット現代史」では、プンツォク・ワンギェル、「ダライ・ラマ自伝」(山際素男訳)ではブンツォ・ワンギャルと表記されている。通称ブンワン。

訳注3 Ngapo Ngawang Jigme 当時カム省長 「もうひとつのチベット現代史」ではガボ・アワンジグメ、「ダライ・ラマ自伝」翻訳ではアボ・アワン・ジグメと表記されている。

本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文


(翻訳 鳥居英晴)