21世紀国際政治の理解を欠くロシア 長期的には戦略的敗者になる可能性 イワン・クラステフ
- 2008/08/29(金) 17:50:45

欧州は新しい19世紀に入った。2008年8月8-12日のロシア・グルジア戦争はタイムマシンとして働き、1990年代の欧州政治を形成した「歴史の終わり」という気分を雲散霧消させ、現代版のより古い地政学的論理がそれにとって代わった。
より古い論理であって、冷戦の論理ではない。実際、南オセチアをめぐる紛争は、冷戦の回帰という威圧的な修辞を生じたが、それが明らかにしたパワーとイデオロギーの実際の配置は、1945年以降の40年間の超大国の対立の時代とは異なっている。これは実際、タイムトラベルであり、単なる歯車の逆戻りではない。
ロシア・グルジア戦争を21世紀の欧州での最初の19世紀型戦争にしているのは、イデオロギー的極性を伴わないパワー対立という特異要素である。赤軍が1968年8月に「プラハの春」を鎮圧するためにチェコスロバキアに侵攻したほぼ40年周年にあたることが証明している。グルジアへの懲罰的侵入はリメークではない。その条件、動機、必然、正当とする理由は異なっている。グルジアにおけるロシア軍の侵攻と勝利は、欧州のパワーポリティックスの中心へ回帰しようとするロシアの試みを表している。それは、21世紀初めの冷戦後の欧州秩序にしきりに挑戦しようとしている、生まれ変わった19世紀の大国としてのロシアの復活を示している。
しかし、HGウェルズの1895年の小説でのタイムトラベルの主人公が発見したように、より複雑な現実がゆっくり姿を現すにつれて、過去ないし未来の世界についての当座の満足は、あてにならないかもしれない。「新しい19世紀」は単なる昔の複製ではない。クレムリンは5日間の戦争、(より長く、より混乱した後でも)で勝者として現れたかもしれないが、長期的には、欧州政治を決定付ける特徴としての「勢力圏」を回復する試みでは、戦略的敗者になるかもしれない。
3重の失敗
グルジアの大統領、ミハイル・サーカシビルは、8月7-8日の夜、南オセチアでの軍事作戦を始めるにあたって、戦略的誤算を犯した。彼は賭けに出て、負けた。グルジアは、(1990年代初めのソ連後の戦争で、トビリシからの支配から自由になっていた領土)アブハジアと南オセチアを失い、軍事的インフラと急速な経済発展の希望も失った。コーカサスのイスラエルになるという2003年以後の指導部を駆り立てた野望は、裏目に出た。
2003−04年の「バラ革命」後に政権に就いた当初、サーカシビリは最初の任期(5年)のうちに、同国の領土保全を再び確立すると約束した。彼は彼自身を意識して中世のグルジアの王ダビッド、Agmashenebeli(建設王)にならった。それは、自己証明であり、実際、彼の大統領としてのモチーフであった。(彼の民主主義の建設や西側制度に同国を統合することについての愛想にいい演説を聞きたがっている、西側の首都にいる聴衆にとってではなく)、グルジア国民にとって、サーカシビリの主要な約束は、アブハジアと南オセチア(彼の統治の初めには、南西部の反乱地区であったアジャリアも)をグルジアの支配に戻すことであった。
ここで、タイムマシンが音をたてはじめる。なぜなら、熱に浮かされ、統制的で、イメージにあふれたサーカシビリ政権は、彼が19世紀の政治的野望と21世紀の政治スタイルとの異様な混合であることを示しているからである。この組み合わせが、南オセチアの首都ツヒンバリを攻撃するという決定を特徴的で説明可能なものにしている。サーカシビリの戦略は、セルビア人が住んでいたクライナでの1990年代初めのフラーニョ・ツジマン(クロアチア大統領―訳者)の戦略のように、現地の平和維持任務を国際化させることをロシアに受け入れさせるために、「既成事実」を作ろうとしていたように見える。それは苦し紛れの計画で、その結果は壊滅的なものであった。
サーカシビリは大きなへまをした。だが、彼の主な同盟者と彼の直接の敵対者もまた、愚かな行動をした。ジョージ・W・ブッシュのホワイトハウスは二重の誤りを犯した。サーカシビリ政権の真の目的を把握しそこなったこと、モスクワがトビリシに対して武力を行使する用意があることについて判断を誤った。デイリー・テレグラフ紙によれば、8月9日においても、米国国務省とCIAは、ロシア部隊はグルジア「本土」(すなわち、2つの「失われた領土」を除いたグルジア)には侵入しないという予想をしていた。
ワシントンから発せられた入りまじり、混乱したメッセージの政治は、ロシア・グルジア戦争の5日の間、続いた。その結果は、二重にはっきりしている。米国がロシアに対して影響力を持たないという事実、グルジアの領土保全を保証するというブッシュの修辞的約束は実際には修辞にすぎないという事実である。要するに、ブッシュ政権の危機管理は2つの世界で最悪であった。方向感覚がなく、また信頼性を失った。
ロシアもまた、重大な戦略的誤算を犯した。ツヒンバリへのグルジアの攻撃に対して、グルジア本土に侵入するという決定は、ロシアの行動が間違いなく国際的な厳しい非難を招くことを意味していた。政治的計画はなく、サーカシビリを排除する現地の政治的同盟者もなく、戦争後にコーカサスを調停する原則もないものであった。ロシアは、その軍事作戦を意味あるものにするための大きく、包括的な計画を何も示していないし、近隣の国や国際的なパートナーと接触できないでいる。ロシアは短期的には勝ったが、結局、グルジア戦争の最大の敗者であったということになり得る。
ロシアの戦略的リスク
確かに、ロシアの当座の軍事的成功は明らかである。クレムリンはロシアが実効的な(粗雑なものであっても)軍事大国として再び、機能できることを証明した。その戦争はロシアの国民にも支持されていた。1990年代の精神的外傷にまだ耐えている多くのロシア人にとって、この小さな勝利した戦争は、20年間の政治的屈辱を逆転させる、長い間待ち望んでいたものであった。短期的効果はウラジーミル・プーチンードミトリー・メドベージェフの正当性を強化する。
しかし、ロシア人にとって、この戦争の心理的側面を明らかにすることは、その19世紀的性格を際立たせることにもなる。問題になっていたのは、領土というより、国民感情であった。それは、19世紀の政治では、20世紀においてイデオロギーがはたしたのと、ほとんど同じ役割をはたしていた(どちらの場合でも、戦争を正当化し、引き起こすことがあり得る)。サーカシビリの火遊びの後、グルジアに侵攻したクレムリンの核心的な理由づけは、ロシアが再び、偉大な大国であると見せつけ、感じる決意であった。実際、サーカシビリ自身の目的も、領土と同時に、心理的なものと理解される。ロシアとの国境でのグルジアの主権を主張することである。
この意味で、2008年8月7-8日の後のクレムリンの行動は、熟慮された政治的戦略によって導かれたのと同時に、弱く、重要でないと見なされることに対する恐怖によって導かれていた。しかし、19世紀の心理は、20世紀のイデオロギーと同じように、国際政治における混乱の源にもなり得る。さらに、両者は意図しない結果の法則の影響を受けやすい。それは、勝利したグルジア戦争の後にロシアに当てはまるかもしれない。なぜなら、ロシアがこの勝利から姿を現した時、プーチンが2000年に政権に就いて以来、どの時よりも、世界からも、旧ソ連圏内からも、戦略的により孤立している危険があるからである。
(クレムリンがグルジアの大統領を嫌悪し、彼の失墜を見たいと思っていたことがはっきりしていたとしても)、8月8日に始められたロシアの攻撃がトビリシでの体制変革を、はっきりした政治的目標として持っていたかどうか依然、不明である。だが、ある程度まで、もっと重要なことは、クレムリンはとにかく、そうした体制変革を保証する政治的メカニズムを持っていないということである。クレムリンは、グルジア社会へ働きかけをするものを持っていないし、グルジアの親西側傾向に挑戦できる合法的政治勢力はない。ロシアはグルジアの領土を占領できるが、それは国際的孤立と西側との危険な関係悪化という代償をもたらすだけである。
ロシアがサーカシビリを追い落とし、トビリシに親クレムリン政権を樹立させることに失敗したことは、ロシアがバクー・トビリシ・ジェイハン(BTC)パイプラインを支配することができないということを意味する。従って、ロシアの軍事的勝利は、旧ソ連領域でエネルギー・ルートの独占権を樹立するというモスクワの野望に実際的な影響を持たない。実際、ロシアと西側の間の緊張が深まったことで、欧州の会社は恐らく、別のエネルギー・ルートを探す努力を増すであろう。これまで以上に、米国と欧州は「幸福は多数のパイプラインを意味する」と確信しているであろう。
ロシアはまた、グルジアとウクライナのNATOへの統合のプロセスを確実に止めることに失敗した。2008年12月のNATO首脳会議の結果を予測するのは難しい。8月19日のNATO緊急会議の結果は、グルジアの期待を勇気づけるものではなかった。だが、ロシアのグルジアへの挑戦に対する効果的な対抗処置として、NATO加盟国が同盟の拡大を求めることで合意することは十分あり得る。もしトビリシが優先課題を失われた領土の回復から、西側機関との結合へと転換することにするなら、グルジアのNATOへの統合は実際の選択肢になり得る。
NATO側では、領土保全を確保するのを助けるよりも、グルジアに「加盟行動計画」(MAP)の道筋を提示するほうが、今や容易である。この短く、不快な戦争で、トビリシが南オセチアとアブハジアの実効支配を確保する見通しは遠くなった。サーカシビリがセルビアの前首相、ボイスラブ・コシュトニツァのように行動するのをやめ、セルビアの現在の大統領、ボリス・タジクのように行動しはじめるというのは、非常に道理にかなっている。
大国の落とし穴
意図しない結果の法則は、ロシアに打撃を与えるような別の方向で働くかもしれない。米国のロシア政策は、手術による身元変えと同等のことをしつつある。数日のうちに、ジョージ・ブッシュの「現実主義者」はブッシュの「冷戦主義者」に変わった。コーカサスでの戦略的同盟者の見苦しい無能さを見せつけられて、ワシントンはモスクワのG8からの追放、世界貿易機関への加盟の希望の喪失、グルジアとウクライナのNATOへの加盟、2014年のソチ(アブハジアから海岸沿いにある)冬季オリンピックのボイコットを目指して圧力をかける「柔軟封じ込め」コンセンサスに移動しつつある。
ロシアにとってより差し迫った心配は、残存する欧州の友人の防衛である。ポーランドが米国のミサイル防衛網の一部を受け入れる協定を直ちに結ぶことを決めたことは、同国の国内強硬派がグルジア紛争を利用して、ロシアへの西側政策で優位に立つことができた典型的な例である。
ロシアはNATOの包囲について被害妄想を持っていた。だがその被害妄想は、最も暗い悪夢を産み出してしまったようだ。今後、米国のロシアの近隣国への支持は、その国の政権の性質ではなく、その国のロシアとの関係で規定されるであろう。中央アジアの専制的な国が米国と取引することに興味を持っているなら、その時期が到来した。
この点に関して興味深いことは、モスクワが軍事的に勝利した際に、旧ソ連圏のロシアの同盟国の沈黙と対抗国の対決的姿勢が対照的だったことだ。クレムリンが懸念するのは、ウクライナ(特に大統領)がサーカシビリへ無条件の支持をしたことではなく、ベラルーシの沈黙である。ロシア外務省がミンスクからの支持がないことに驚きを表明したその日に、ベラルーシの大統領、アレクサンドル・ルカチェンコは外務省に対して、「欧州連合と米国との関係改善に措置をとる」よう命令した。この立場は、ルカチェンコが後にソチを訪問した際に、モスクワの作戦を称賛する巧みな発言をして、部分的に和解した。
従って、ロシアのコーカサスでの戦争における軍事的勝利は、結局、「カラー革命」の短い期間でのロシアの政治的敗北よりも、同地域にけるロシアの戦略的利益を害するものになるかもしれない。その時期に、ロシアはウクライナとグルジアで威信と地位を失ったが、同時に、ロシアは旧ソ連圏で専制的指導者と共通の利害を見出し、同地域で反西側同盟を作るのを助けた。カラー革命は欧州連合が革命的、修正主義的パワー(revisionist power 訳注1)であるかのように見せた。それに応えて、ソ連後のエリートは現状を維持するように動員された。
だがいま、修正主義的パワーであるのはロシアである。ロシアが自国民を保護する権利という言葉を使うことは、旧ソ連諸国にいるロシア人少数派への見方を大きく変えるであろう。旧ソ連でのロシア人居留民の4分の3が、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシに住む。その3ヶ国はロシアにとって戦略的に最も重要であるが、旧ソ連圏での自国民の権利を守るために武力を使う権利があるというロシアの主張を最も恐れているであろう。ウクライナが、ロシアのパスポートを持った市民がセバストポリに何人住んでいるかの調査を始めたということは、驚きではない。ロシアが自決の原則をもてあそぶことは、ロシア自体内でも脆弱さを感じることが増すであろう。旧ソ連国家の中で、ロシアは唯一の多民族連邦であるからだ。
アレクサンドル・ドゥーギン(訳注2)は、ロシアの国家形成事業の中心にあるジレンマを鋭く明確に表した。彼の言葉によれば、現在の国境での、現在の政治制度でのロシアは、一時的な現象である。ロシアは、通常の民族を基にした国民国家になるためには、大き過ぎ、民族的に多様過ぎる。同時に、古典的帝国がするように裏庭を支配するには、十分に大きくなく、十分に強くない。ドゥーギンが言っていないことで、ロシアの政治の観察者には誰にも明らかなことは、現在のモスクワの指導部の19世紀的考え方は、旧ソ連の領土についての真の統合主義的(integrationist)事業の観点を排しているということである。
ロシアの「ソフトパワー」の欠如
戦争後の混乱の中で、ロシアのメディアとロシアのアナリストは、残忍な暴力の発生を調べ、それが同国の国際的な立場にとって何を意味するのか評価し、「情報戦争」でのモスクワの敗北について討議している。意見が一致することは、グルジア軍に対する攻撃は軍事的成功であったが、「宣伝の失敗」であったというものである。モスクワの宣伝マシンは、まったく無能であるとされている。
しかし、多くののロシア人が情報戦争での敗北として経験していることは、実際には欧州政治で影響力を行使しようとする、この19世紀型思考の政権が無力であることをさらけだしているということである。ロシアは5日間のグルジア戦争で、意味のある「ソフトパワー」を持っていないということを発見した。ロシアはポスト・イデオロギーの世界で、危険なまでに孤立している。ソ連の終わりと共産主義の死は、ロシアから普遍的な言葉と普遍的な魅力を奪った。それに代わるものは何も出現していない。
ソ連は邪悪な帝国であったが、真の「ソフトパワー」を持った邪悪な帝国であった。ソ連の戦車が1968年8月20-21日、チェコスロバキアに侵攻した際、少なくとも世界の共産党の一部は、それが社会主義の名目で行われたとふるまおうとした。ロシアのグルジア本土の占領は、この程度の見せかけの支持さえも引き起こさなかった。サーカシビリが戦争を挑発し、最初に攻撃したというロシアの正当性の主張は、ロシアの作戦でグルジアに与えたそのような破壊を正当化するのに十分とは言えない。要するに、ロシアの勝利は尊敬を勝ち得たが、友人は得られなかった。
「主権民主主義」を国家イデオロギーの地位に押し上げようとするクレムリンの試みは、部分的にしか成功しなかった。「主権民主主義」という概念は、ロシアにおける西側の影響を制限するのに役立ったが、世界的にはアピールしていない。この急造の概念では、主権は権利ではない。その意味は、国連での議席ではない。クレムリンにとって、主権は能力を意味する。それを持つことは、経済的独立、軍事力、核兵器、文化的アイデンティティを暗示する。ロシアの見方では、大国だけが真に主権たり得る。この主権についての見方は、欧州の小中国家の中で多くの信奉者を得られないであろう。
さらに、ロシアがグルジアのインフラの破壊を正当化するために、1999年のコソボ戦争で西側が使った人道的介入という言葉を借りようとしたのは茶番であった。それは、2008年8月までにいたるすべての期間でのロシアの外交的立場と矛盾した。そして、ロシアが戦争を始めたのではないとしても、それを待っていたという疑いを増しただけであった。ロシアがそうした言語上の借り物の衣装を使うと、その行動はより冷笑的で、悪意のあるように見えた。ロシア外相が民族浄化とハーグの戦争犯罪法廷について語り始めた時には、多くの観察者は、ジョージ・ケナンが、ロシアはその国境に属国か敵国しか持たないと言ったことを思い出した。
こうしたことで、ロシアがこの紛争で国連安全保障理事会で孤立し、G7が宣言を出し、国際世論の多くの部分がロシアの行動に同情的でないことは、驚くにあたらない。しかしながら、ロシアは世界での自分のイメージに気づいていなかった。これは、管理された民主主義を導入した代償の一つである。それは、すべてのテレビ局はORT(ロシア公共テレビ)のようであるという錯覚である。
ロシアが世界に対し、グルジアに対するその行動の正当性を納得させることができなかったことで、ロシアは世界舞台に戻るための計画を再検討するはずである。ロシアは、生まれ変わった19世紀の大国であり、それがポスト20世紀の世界で行動している。その世界では、武力と能力の変数は大国の地位や行動を規定する唯一の方法ではもはやない。「ソフトパワー」の欠如は特に、修正主義的国家(revisionist state 訳注3)になろうとしている国にとって危険である。なぜなら、ある国が今日において、世界の秩序を作り直したいと思うのなら、その国は依存と勃興しつつある列強の配置に依存し、国際世論の想像力を獲得できなければならないからである。
別の言い方をすれば、1990年代の規範的時期は終わったが、普遍主義(universalist)の魅力の必要は残っているということである。ロシアにとってのグルジア戦争の教訓は、ロシアが19世紀の国際政治の規定に捕らわれたままでは、21世紀の条件で可能なような大国にはなれないということである。ロシアは新しいタイムマシンが必要である。だが。世界もそうである。
*イワン・クラステフ ブルガリア・ソフィアにあるCenter for Liberal Strategies代表。バルカン国際委員会(座長・アマート元イタリア首相)の事務局長をつとめた。
訳注1 訳注3 ここでのrevisionism(修正主義)はterritorial revisionism、つまりrevanchism やirredentism(領土回復主義、戦争で失われた領土を回復しようとする主張)の婉曲表現
訳注2 ロシアの政治活動家 「新ユーラシア主義」として知られる現代ロシアの地政学者 「ユーラシア運動」の設立者
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文
(翻訳 鳥居英晴)
アブハズ人と南オセチア人の声を聞け グルジア紛争の解決 ジョージ・ヒューイット
- 2008/08/23(土) 17:17:13

2008年8月8-12日のグルジア・ロシア戦争の2日目、アブハジア沖の黒海でロシアの警備艇は、上陸しようとしていたと思われるグルジアの船4隻を沈没させた。それらの船の名前は不明であるが、グルジア政府が所有する軍装備品の公表されているリストー主にグルジアの西側の友人によって何年もの間にわたって供与された装備品ーには、Mazniashvili.将軍と名付けられた船があることは興味深い。
なぜ興味深いのか?なぜなら、Mazniashvili (Maznievともいう)将軍(訳注1)は、1918−21年の間にグルジアあったメンシェビキ政府のために、アブハジアから南オセチアにいたるまで、「戦禍」を広げたことで最もよく知られているからである。船にその名前を付けたことは、これら2つの地域の支配を確立するためになされた90年前の無慈悲な試みでの中心人物に対する、現在のグルジアの公式的な感情がはっきり示されている。それはまた、アブハズ人と南オセチア人にとって、1990年代初めの残虐な戦争でグルジアの支配からやっと手にした自由は、世界の注目と理解、尊敬を得るに値する、彼らの一体性を守る長い歴史の一部であるということを思い起こさせるものである。
これらの人々、またグルジア人だけでなく、ロシア人であろうと、米国人、同地域での最新の戦争に巻き込まれただれでもが、自分自身の歴史を持っている。彼らの所産の多くは、この世代で意図的に粉砕された(1992年の戦争でアブハジアの文化財が破壊されたことを指すー訳者)。2008年8月の短い戦争の教訓は、次のようなものである。1918−21年と1991−93年の紛争は2つのエピソードに過ぎず、紛争の連鎖は繰り返されることなく、断ち切られるとするならば、アブハズ人と南オセチア人の将来に関する決定がなされる場合には、彼らの声、彼らの選択が反映されなければならないということである。
政治的ブーメラン
グルジア・ロシア戦争についてのメディアであふれた評論は、強迫観念のような地政学的な計算によって特徴づけられていた。それは、グルジアと同地域に関してしばしばそうであるが、グルジアの「失われた」領土(もしそう見なされるなら)を、地球という将棋盤の上の軽率でイライラさせる駒にすぎないものとして、最初から見なしがちである。このため、アブハジアと南オセチアは、それ自体で重要であり、2008年8月の戦争に内在する問題の解決のための中心であるからこそ、彼らを参加させるべきだという議論と彼らの主張を真剣に検討することは有益である。
ミハイル・サーカシビリの屈辱という、こうした絶望的な日々にあっても、グルジアの政治状況の特筆すべき特徴は、グルジアの南オセチアへの侵攻(1990−92年)とアブハジアへの侵攻(1992−93年)がもたらした傷がいかに深いかについて、同国でほとんど認識されていないということである。いわゆる「凍結された紛争」(frozen conflicts)を解決するうえで前進がなされるためには、この時期においてグルジアが果たした役割について、同国が公式のレベルで責任を認めなければならない。
この見直しでの含まれる重要な点は、南オセチア人とアブハズ人がそれぞれの領土に関して、昔から主張している居住権を認めることである。1989年にトビリシで噴出した民族主義の時代に、ソ連後のグルジアの初代大統領になることになる男、ズビアド・ガムサフルディアは、オセチア人は1921年に赤軍が侵入したあとを追って、グルジアに現れたとさえ主張した。
それは昔も今も、神話である。いまは亡きイラン言語の専門家、Ilya Gershevitchは彼の考えとして、南オセチアの言語は北オセチアで話されている言語とは極めて異なるので、分裂は紀元前に起きたに違いない、とかつてわたしに語ったことがある。さらに、グルジアの「黄金時代」のタマル女王(在位1184年−1213年)は、少なくとも半分オセチア人であり、オセチア人の夫も持った。だが、そうした神話は―アブハズ人はアブハジアの先住民ではないと流布されているー緊張の時代には非常に危険なものになりえる。
グルジアでのソ連の崩壊の中で、南オセチアとアブハジアの知識人と生まれつつあった市民社会は、トビリシから発せられる彼らを狙った排外主義の修辞がもたらす危険に気づいた。彼らは、彼らの集団的、政治的利益を守るために民族フォーラム(南オセチアではAdamon Nykhas、アブハジアではAydgylara)を結成し、今日まで続く地域間のつながりを作った。
ガムサフルディアは、彼自身の神話―彼の一つおいた後継者であるサーカシビリも共有したーを信じて、南オセチア人をその領土(グルジアはそれをSamachabloと改名した)から排除することは簡単なことだと考えた。その結果は、1990年に始まり、1991年に拡大し、1992年春に終わった戦争であった。その後、ガムサフルディアは打倒され、軍事政権がトビリシを掌握した。1992年3月、軍事政権はソ連時代のグルジアの共産党のボスで、ミハイル・ゴルバチョフの下でソ連の外相になった、エドアルド・シェワルナゼを招いて、国を率いさせた。
ガムサフルディアとその武装支持者は、グルジア西部州のサメグレロ(ミングレリア、Mingrelia).にある基地から新政権に抵抗した。シェワルナゼは南オセチア人と妥協することを選び、両者は(ロシアの当時のボリス・エリツィン大統領の介入で)Dagomys(ソチ近郊の町―訳者)協定に調印した。合意の条項には、停戦を監視するために3者(グルジア、オセチア、ロシア)による平和維持部隊の項目が含まれていた。
その結果、1992年以降、静かな州都ツヒンバリに代表される南オセチアは、放置されたへき地となり、市民は仕事を求めてロキ・トンネルを通ってロシア連邦の共和国である北オセチアに行くしかなくなっていた。こうした状況は、シェワルナゼがグルジアを支配していた10年間続いた。サーカシビリが2004年に政権に就くと、変化し始めた。彼は、南オセチアとアブハジアをグルジアの支配の下に(2年間で)回復するという約束を民族主義的な優先課題にした。
彼の活動的、干渉的な態度の効果は、間もなく感じられた。紛争地域の境界線にあった現地の市場は、交易のために協力し、両者とも何の問題もなくやっていたが、「闇経済」の一部であるという理由で閉鎖された。言いなりになったあるオセチア人が、境界のグルジア側にある村を拠点に、南オセチアの親グルジア「政府」を率いることになった。
こうしたことは、うまくいかなかった。2008年8月の戦争の特異な側面は、2つの紛争地域のうち、より大きく、より繁栄し、より防衛されているアブハジアの問題よりも、南オセチアの「問題」の方がトビリシにとって管理し、解決しやすいであろうと長く思われていた期待を裏切ったということである。それどころか、サーカシビリの開拓プロジェクトは、南オセチアで失敗し、南オセチアはトビリシの支配からかつてないほど遠いものになっている。
戦争の愚かさ
サーカシビリが大統領に再選された2008年1月には、グルジアの最新の神話の作り手には、それはまったく違ってみえた。彼は再び、2期目の間に2つの領土を回復すると約束した。緊張が数ヶ月続いたのち、2008年8月7日から8日にかけての夜、何も知らないヒンバリに対するグラッド・ミサイルによる残忍な攻撃で頂点に達した。
サーカシビリは、グルジアの行動はロシアの戦車が入ってきたために対抗したものであると主張し続けているが、戦車が到着する前にロシアの平和維持部隊員15人が死んだことには触れていない。2008年の熱を帯びた数ケ月にロシアが計算したことの少なくとも一部は、世界にサーカシビリ政権の真の性格を見させるために自制しようとしたことであった。結果的には、そうした態度はロシアの平和維持部隊を救うことにならなかったし、ツヒンバリへの攻撃開始の事実を無視し、ロシアの対応を非難するのに忙しかった西側の指導者に対して、目立った効果はなかった。
しかし、南オセチアの州都を攻撃するという決定の愚かさは、発端が何であれ、サーカシビリだけのものではない。それは、サーカシビリの時代に強まったが、1990年代初めの重要な時期にすでに確立されていたグルジアに対する西側の政策と支援の幅広い形態と関係しているに違いない。
この点に関して重要な決定が、南オセチアでガムサフルディアの戦争が進行中であった時になされた。それは、ガムサフルディア派がシェワルナゼ派とサメグレロ(ミングレリア)で戦っている時であり、アブハジアに対する脅威が続いていた時であり、トビリシには合法的政権が存在しない時であり、グルジア全土で混乱が支配していた時であった。その時に西側は、ソ連の国内の同国を承認する適切な時であると判断した。
この決定は、ソ連の共和国(ユーゴスラビアの構成共和国と同様)だけを個別の国家として承認するという国際社会の恣意的なアプローチと一致していた。グルジアの場合、西側はグルジアがガムサフルディアの悪政にある時は、この方針を適用するのを避けたが、シェワルナゼがグルジアに戻るや否や、態度を変えた。「西側の友人」が政権に就いたのである。選挙は1992年10月まで予定されておらず、基本的な民主的合法性さえ主張できなかったが、西側の国家(英国のジョン・メージャー政府を筆頭にしたもので、旧ユーゴスラビアでの同じく悲惨な政策を思い出させる)は、シェワルナゼ政府の承認と外交関係の樹立に急いだ。
グルジアはこの時期に国際通貨基金と世界銀行、国連への無条件の加盟を果した。独立の権利を要求していたアブハジアにとっては、その結果は惨事であった。なぜなら、シェワルナゼは国連への加盟を、アブハジアへの戦争を始めることで祝ったからである。それは、この熱狂的なグルジア民族主義の大義へ、反対者たち(武装したガムサフルディア派を含む)を結集させるためであった。賭けは無数の破壊をもたらした。その多くの犠牲者には、アブハジアに住む数千人のメグレル(Mingrelian)人とグルジア人を含んでいた。それは13ヶ月続き、結果は長く不安定であった。賭けは失敗した。1993年9月30日にアブハズ人と彼らのコーカサスの同盟者によって、シェワルナゼの軍隊に屈辱的な敗北を与えた。それは、トビリシが、緑豊かで、豊かになる可能性を秘めた共和国(アブハジアのことー訳者)を失ったことを意味した。
1994年春、南オセチアをめぐるDagomys 協定と同等の停戦合意がモスクワで合意された。その時には西側の関心は、バルカンの西側が寄与した混乱に集まっていた。時代は変わるもので、西側は平和維持の責任をロシアに喜んで任せた。その結果、ロシア軍は、グルジアのサメグレロ(ミングレリア)とアブハジアの伝統的な境界であるイングル川近くの非武装地帯に沿って展開する3000人の平和維持部隊のほとんどを構成することになった。
こうして、アブハジアと南オセチアの間のつながりが深まり、静かな首都のスフミに代表されるアブハジアもまた、放置されたへき地となり、市民はどこかで仕事を探すか、(とどまった人々にとっては)破壊されたインフラと経済をできるだけ回復させるため、ロシアが提供した援助は何でも利用するしかなかった。
コーカサスの総督
グルジアのソ連時代の国境を承認することは、アブハジアの苦悩と南オセチアの苦悩の多くの源であり、グルジアの苦悩の源でもある。サーカシビリの失敗の影響がまだ出ている時にさえ、NATO事務局長と英国外相のまったくばかげた声明(グルジアのNATO加盟を支持するというものー訳者)が、(他の西側の指導者の間で)再び表明された。1990年代初め以来、2つの領土をめぐる戦争での明らかな過失にもかかわらず、危機のどの時点でも、「凍結された」紛争をめぐる議論でも、グルジアは国連加盟国に対して、領土保全の原則の順守を呼びかけることができた。それは事実上、グルジアは「国内」問題と厄介な人々に関しては、好きなようにできると言っているのと同じである。
それだけではない。1990年代、グルジアは「破たん国家」になるようにも見られたことがあった。シェワルナゼに統治された国は、あらゆる種類の援助も求めることができた。それには、分かりやすい、歓迎される経済投資だけでなく、もっと困ったことに、膨大な量の軍装備品や関連した訓練計画もあった(それは、9・11以後の時期と、ボリス・エリツィンの混乱した時代以後、ウラジミール・プーチンがロシアで一貫性のある政府と確固とした外交政策を打ち立て始めるとともに、急増した)。
グルジアはなぜそのような途方もない量の武器と軍装備品を必要としたのか?最も狂ったグルジアの指導者でさえ、ロシアとの戦争を始めることは考えないであろう(正直なところ、この判断は見直さなければならないかもしれない)。アゼルバイジャンは、バクー・トビリシ・ジェイハンを通るパイプラインの平和的管理でグルジアと利益を共有している。そのパイプラインは両国にかなりの富をもたらしている。グルジアとアルメニアは何世紀にもわたり、競り合ってきたが、軍事紛争を起こす可能性の兆しはない(グルジアのJavakheti地区のアルメニア人少数派の不満と貧困にもかかわらず)。グルジアと隣国トルコは敵対する理由がない。
結論は明らかだ。グルジアの軍備の標的は南オセチアとアブハジアであった。
その結末は、グルジアの軍事機構をだけでなく、指導者の自己権力の拡大と思い上がりを煽ることになった。彼らは、西側、特に供給者である米国は、南オセチア、アブハジアに対する支配を回復す
これが中国の首都での五輪の開会を前にしてのサーカシビリの醜悪な失態の背後にある一つの要素であったに違いない。
1990年代初めという極めて重要な時期に結ばれたアブハジアと南オセチアの間の絆は、相互の防衛協定を含んでいた。グルジア軍が2008年8月7-8日にツヒンバリを攻撃すると、アブハジアは、それをどのように実行するか決めなければならなかった。決定は下され、グルジア軍部隊を退去させようとした。同部隊は停戦協定に違反して、2006年7月、アブハジアの一部のコドリ渓谷上流に配備されていた。その部隊は、(南オセチアのモデルにならって)トビリシがすでに設立していた「アブハジア亡命政府」をそこに移した後に配備されていた。
コドリ渓谷上流へのその動きは、グルジアに第二戦線を開かせようとするものであり、アブハジアで新たな南オセチアの悲劇を繰り返すことを回避するためのものであった。アブハジアの陸軍部隊は8月12日の夜明けに渓谷に入ったが、ほとんどのグルジア兵は逃げたあとだった。真夜中までに、すべての地域は確保された。
その結果は意味深いものである。ロシアは南オセチアのグルジア兵から捕獲しものの中に、アブハジアの領土を段階的に確保していくグルジアの計画を描いた一連の地図を発見したと伝えられる。アブハジアは自力で、コドリ渓谷の中心で、sainpormatsio tsent'ri NAT'O-s shesaxeb (Information Centre about NATO)と書かれた額(.グルジア語と英語)を見つけた。
サーカシビリのテレビ演説は、南オセチアに対する事実上の宣戦布告したもので、彼の部屋には欧州連合の旗を見せびらかせている。グルジアはNATOの加盟国でも欧州連合の加盟国でもない。その象徴的な行動は、不協和のままの政治的機能不全の証拠である。
がれきの中の道
2008年8月の戦争の軍事的、政治的後遺症は、まだ決着したとするにはほど遠い。外交的なものが待ち受けている。ニコラス・サルコジによって折り合いをつけられ、ドミトリー・メドベージェフが受け入れた停戦合意が完全に実施されるようになると、西側は、ヨセフ・スターリンが引いた国境線による同国を承認した思慮の浅さを真剣に再検討する必要がある。国際法の根拠はコソボをめぐって変わった。それは事実上の国境でのグルジアを承認し、南オセチアとアブハジアの共和国を新しい国家として承認することによって、再び動かしえる。
この文章で概説された歴史を理解(1990年代初めの重要な出来事とそれ以来に起きたことすべてを含む)することが、トランスコーサスのこの部分に住むさまざまな人々の間での平和的な関係の基礎を築く唯一の方法である。
来るべき交渉は、アブハジアの戦争が終わったあと、逃れたり、追放されたカトヴェリ人(メグレル人とグルジア人)難民の定住など、ソ連後の戦争以来そのままになっている困難な問題と取り組まなければならない。多くの人たちが1993年以来、グルジアのさまざまな場所で惨めな状態に耐えてきた。トビリシの荒れ果てたホテルに何年も収容されていた人たちは、不動産開発のために立ち退かされ、Tsqneti(トビリシの北)の一部に住んでいた人々は、その土地がサーカシビリによって、グルジア国会議会の前議長、ニノ・ブルジャナゼ(西側では西側の支援者がサーカシビリにあきた場合、彼の後継者になるかもしれないと宣伝されている)に与えられと、再び強制的に退去させられた。
シェワルナゼとサーカシビリの政権の下で、難民が放置され、虐待を受けていた一つの理由は、グルジアの極めて困難な政治にある。彼らのほとんどは、メグレル人である。彼らはカタヴェリ語族に属するが、(ガムサフルディアなど多くの者が、グルジアの超愛国者になっているにもかかわらず)グルジア人によって遠ざけられてもいる(訳注2)。しかし、これはまた、外交的、政治的、そして経済的な進歩に重要になる可能性がある。なぜなら、独立したアブハジアに平和が確立されたら、少なくとも、こうした勤勉な人々の多くは、アブハジアで生活を再び始めることができるからである。
短く、むごい戦争の後の日々は困難であった。今後は多くの危険があるであろう。ソ連後の3人目のグルジアの欠陥のある指導者は、国に惨事をもたらした。民族主義の虚飾への西側の無謀な応援は、グルジアを新たな危機に導いた。これはグルジアの人々が解決するものである。一方、サーカシビリやMazniashvili将軍が何と言おうとも、南オセチア人とアブハズ人は別の計画を持っている。世界は彼らの言うことを聞くべきである。
*ジョージ・ヒューイット(George Hewitt) ロンドン大学東洋アフリカ研究所のコーカサス言語教授 アブハジアの言語と歴史研究の第一人者
訳注1 ウィキペディアによると、Mazniashviliは亡命するが、帰国を許された。しかし、大粛清の時に逮捕され、1937年、処刑された。
訳注2 グルジアは自国語では、サカルトヴェロ(SAKARTVELO)という。
「グルジア語の話者を狭義のグルジア人として、スヴァン人、メグレリ人を加えて広義のグルジア人とするが、グルジア語では、狭義のグルジア語の話者のみが、カルトゥリ人である。スヴァン語、メグレリ語の話者はそれぞれ、スヴァン人、メグレリ人であって、カルトゥリ人ではなく、カルトゥリ人、スヴァン人、メグレリ人を総称する固有の用語はない」(『コーカサスを知るための60章』)
「ミングレル人(Mingrelians)はグルジアの少数民族であり、主にグルジアのサメグレロ(ミングレリア)に居住している。また多くがアブハジアとトビリシに居住している。およそ18万人から20万人のミングレル人が1990年代初期に発生したアブハジア紛争とそれに続いたアブハジアからグルジア人を駆逐する民族浄化の結果アブハジアから追い出された。ほとんどのミングレル人はミングレル語とグルジア語の両方を話すが、グルジア文字のみを使用する」(ウィキペディア)
コーカサスの言語地図
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文
(翻訳 鳥居英晴)
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