「宗主権」から「主権」へ チベット支配に西洋概念を流用した中国
- 2008/04/08(火) 22:23:49

2008年3月のラサなどで、チベット人の抗議活動が急にエスカレートすると、中国はチベットに対する主権(sovereignty)を改めて強く主張する言辞を用いる一方、チベット人は自決権(the right to self-determination)の主張で反論した。こうした両者の立場は、正当性を立証するための歴史的な参考文献と事実が決定的に依存している。だが、歴史はどちらの側に対しても、どこまで支持を与えるであろうか。
この問題へのアプローチのひとつの方法は、チベットめぐる現代の政治的主張を、中国とチベットによる主権という概念の使用を考慮に入れて吟味することである。そうした読み解きは、両者の政治的主張を複雑化すると言われるかもしれない。たとえば、20世紀初め、チベット人は中国国内の内戦に乗じて、中国人の役人と軍隊を追い出して、彼らの国を事実上(de facto )の独立国にした。そうした状況は、1913年から1949年まで続いた。
しかし、この期間にチベットは独立国家として広い承認を得ることはできなかった。政治的支配権(political supremacy)という中国の法律上(de jure)の主張は疑問を持たれなかった。この意味において、中国はチベットの領有について歴史的、法律的に正当な主張を保持した。
けれども、中国のチベットに対する政治的支配は絶対的なものではなかった。チベットは中国にとって、特別の場所を占めていた。中国の皇帝は仏教徒であったことが多く、仏教徒のモンゴル人をなだめるうえで、チベットのラマは役に立つ同盟者であった。その関係は、檀徒と僧侶の関係に似ていた。それは、宗教的、象徴的、政治的な内容をもったものであり、主権とか独立(independence)といった絶対的な用語とは異質なものであった。( Gray Tuttle, Tibetan Buddhists in the Making of Modern China参照)
絶対主権という欧州の概念を中国が使用することは、この関係に特別の負担を与えた。それはそれ自身、二つの要素の産物であった。つまり、20世紀初頭における中国の民族主義の台頭と、欧州の語彙を使って中国とチベットの関係を名づける英国領インドの試みであった。
この意味において、中国のチベット支配は、二つの異なった帝国の軌跡(ひとつは中国、もうひとつは西洋)を通じて理解しえる。中華人民共和国は、チベットに対する支配を合法化するために、歴史的な帝国のつながりに主に焦点を当てる一方で、主権という概念を用いている。主権という近代的概念は、帝国主義と非植民地化を通じた欧州の普遍化の産物である。そのことは、近代チベットを「記述」するうえで、西洋の帝国主義者の軌跡の重要性を示している。
重要な変容
チベット人の国民性・民族性(nationality/ethnicity)は非常に早い段階から、漢族、回族(すべてのイスラム教徒に用いられる)、満洲族、モンゴル族の範疇とともに、近代中国人の国民意識の中核にあった。一方、西洋(欧州、米国、この文脈では日本の)帝国主義の衝撃と、「偉大な連続した文明」としての中国という自覚が組み合わさって、中国の民族主義は仮想の集合性に対するどのような挑戦に対しても自意識過剰になった。
こうして、チベット人は、近代中国の民族主義、1950年の軍事的「解放」と1951年の「17ヶ条協定」より以前の国民国家の不可分の部分になった。もっと広く言うと、今日の中国政権は、支配を合法化する主要な手段として民族主義を利用している。資本主義的な経済の運営に専制的な支配を組み合わせているので、チベットであれどこであれ、民族の民族主義(ethno-nationalism)が政治的形態をとることについては、過度の猜疑心を持たざるを得ない。
チベットにおける英帝国主義の活動も、中国のチベットに対する態度の変容で重要な役割をはたした。特に、1903年から1904年のヤングハズバンド大佐の率いる軍の侵入により、中国のエリートはヒマラヤを越えた南からの敵対的な勢力への脆弱性を認識した。20世紀前半での英帝国の政策の最も重要な側面は、「中国の宗主権(suzerainty)−チベットの自治権(autonomy)」という方式であった。だが、チベットの政治的地位につてあいまいさを助長するうえで、この計算された戦略的偽善は長く続くものではなかった。
1940年代後半はこの点に関して、重要な時期であった。英国は1947年にインドから撤退した。内戦での共産主義の勝利は1949年以降、中国で安定した政府が出現したことを意味した。同時に、そうして出来事は、「中国の宗主権―チベットの自治権」の方式の文脈が変容させられたということを意味した。20世紀の始まりから中国はチベットへの主権を維持していたが、いまや、この主張を実行し、チベットを軍事的に「解放する」(中国はそう見る)立場にいた。インドにおける帝国の終わりとともに、英国はチベットを戦略的に重要なものとは見なさなくなった。
独立の幕開けにあったインドは、チベット問題を地域の英帝国主義の遺物と見なす反帝国主義の民族主義に駆り立てられていた。その結果、インドが画定した国境と考えたものは、実際には英領インドとチベットの間のシムラ協定(訳注)の産物であっと認識することなく、インドは中国のチベット支配を受け入れてしまった。(仮調印後、中国はそれを不平等条約だとして拒否した)。こうして、インドがチベットを中国の一部であると認めたことで、両国間の国境問題に道を開いた。
1940年代後半になって、チベット人は遅ればせながら独立した地位の確認のために国際的な支持を求めようとしたが、失敗に終わった。中華人民共和国はチベットを自治区ではあるが、中国の不可分の一部として地政学的に記述することを、欧州の憲法の武器庫の中から最も強力な武器のひとつ、つまり主権という概念でもって完成させた。チベットの地政学的なアイデンティティは「宗主権―自治権」から「主権―自治権」に変換された。主権という概念がその利益と野望に最も役に立つことを発見したのはチベットではなく、中国であった。
歴史の利用
「チベット問題」が主権と自治権という競合する概念によって、どのように組み立てられていったのかをみてみると、ポスト植民地世界で政治的問題が解決困難なのは、長年の歴史的憎悪や「本質的な」文化的違い以外の要素によるものであることがはっきりする。主権や民族主義という概念はもともと西洋のものであったが、非西洋の関係者は、それを彼ら自身の政治共同体の観念を変容するために流用してきた。(この議論のさらなる発展のためには、わたしの著書Geopolitical Exotica: Tibet in Western Imaginationを参照のこと)
この事業では、「伝統」は近代的国家である状態(statehood)の主張を支持する方便として利用される。非植民地化の重要な時期に敗れたチベット人のような人々は、現存する支配国家が分裂するか、他の大国が既成国家からの分離を支持しない限り、分離した国民国家として認められるように、納得させる主張を唱えるのは困難になる。
チベットの場合、こうした条件のどちらも可能性はない。このことは、ダライ・ラマの指導のもとにある海外にいるチベット人は、術策の余地がほとんどないということになる。彼らの苦境の一因は、中国が主権という語彙を流用する中で、西側は近代チベットの帝国的な記述を通して、中国の同盟者であったということである。
絶対的なのもの限界
チベット問題を歴史の文脈にあてはめることは、現代の政治的議論の背景の説明を助けるうえで重要である。歴史というものが現在の立場を支持するためのもの以上であるなら、前向きのとなる要素を示すかもしれない。たとえば、英帝国が介入する以前は、中国とチベットの関係は相互利益のために便宜を図ることが多かった。チベット人は中国からの政治的圧力を通常、感じなかったし、(それを「独立」と呼ぶことなしに)かなりの自由があった。一方、中国は(その地区に多く投資する必要なしに)全体的な政治的支配を認めた。
ある時には、国際的なシステムと個々の国家は、主権という絶対的な概念は、ためになるより害を与える可能性があるということを認めなければならないであろう。これはまた、中国内におけるチベットのために、人間的で効果的な解決策への道を開くであろう。当分の間は、中国政府が次のように自覚することが望まれる。意見の相違と抗議を許容する体制は永続的な解決策を産み出しえるが、その市民に永久に疑いを抱いたままの体制はそうした解決策を産み出すことはできない。
*ディベシ・アナンド 英国のウエストミニスター大学民主主義研究センター准教授。ポスト植民地の国際研究、中印関係、中国、チベット、インドを研究。
訳注 シムラ条約 1914年に英国とチベットの間で調印された。「チベット本土は中国を宗主とする自治国家であること、中国のアンバンはその階級と地位にふさわしい軍隊の護衛とともにラサヘ戻ること、中国と英国はチベットの政治に何ら介入しないことなどが三者によって賛同されたが、チベット国境の問題で見解の相違が大きく、協定不可能に」(Wikiwiki Tibetan Lab) アンバンとは中国からの大使のような役職。注記において、チベットは中国領土の一部であると理解されている。英全権代表ヘンリー・マクマホンは、インド領の東部国境線を北上させる条項をチベットと締結。この国境線(マクマホンライン)が元で1950年代後半、中印国境紛争が表面化した。
【宗主権】 他国の主権を従属的に制限する権能。国家が独立する過程で、本国が独立する国に対してもつ場合が多い。
【主権】 (1)国家の統治権。他国の意思に左右されず、自らの意思で国民および領土を統治する権利。領土・国民とともに国家の三要素をなす。 (2)国家の意思や政治のあり方を最終的に決定する権利。
「広辞苑」より。
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文
(翻訳 鳥居英晴)
汎チベット民族主義の時代の到来
- 2008/04/06(日) 23:48:08

最近のチベットでの騒乱の報道に関して、西側メディアが明らかに反中国に偏向していることに中国の市民が不満を持っていることは理解できることだ。2008年3月14日のラサでの暴動では数人の罪のない中国人が死亡し、多くの財産と仕事を破壊した。しかし、中国市民は抗議活動の原因となったものに目をつぶるべきではない。
中国国内で混乱が起きるといつも、政府の反応は常に本能的に、責任を「中国の内政に干渉する」外部の反中国の勢力のせいにする。だが、チベット高原全土で起きている現在の暴動と抗議デモの波について、ダライ・ラマが直接的な役割を演じていないことは明らかである。むしろ、チベット人のダライ・ラマの帰国を求める強い願いを、中国政府が拒否していることが現在の騒乱の根本原因である。
歴史的瞬間
この抗議活動が、このように激しく、民族的に敵対する様相を帯びるようになったのは、急速な経済発展をしているチベット高原の多くの部分で、チベット人が先祖代々の祖国で、急速にかつ不本意に少数派になっているためである。同じような形で、中国内蒙古の「自治区」でモンゴル人がすでに、ごくわずかな少数派になっている。中国人の移住者が数で上回るようになれば、チベット人の民族主義は必然的に見込みのない時代錯誤的なものになり、チベット人は中国が彼らに与えた地位、つまり祖国中国の「大家族」の不可分の一員としての地位を受け入れざるをえなくなるであろう、ということを中央政府は十分承知している。
チベット人自身も、彼らの土地への移住者の流入と中国の経済的企業体の設立が、彼らの文化を続けていくうえでの最大の脅威となっていることに敏感に気づいており、そうしたものが抗議活動の主要な標的になった。物質的な生活水準が上がったにもかかわらず、高原全土のチベット人は植民地的に権利が奪われていると感じており、伝統的文化では、生活に価値と意味を吹き込んでいた、かつて神聖で生き生きとしていた環境が変わってしまったと感じている。
自然発生的な抗議行動が、ラサからアムドとカム(四川省、甘粛省、青海省)の境界地域にいたるまでのチベット高原全土で起きたという事実は、汎チベット民族主義の時代の到来が遅ればせながらやってきたということを示している。過去においては、チベット文化世界全体を示すのにはカワチェン・ジ・ユル(「雪の国」)という言葉を除いて、チベットに名前はなかった。
「チベット」という名前が由来するチベットの名前、Bod(p�と発音する)は、ウとツァンの中央チベット地域だけをさし、チベットの文化言語地域である、人口の多いカムとアムドは除かれていた。カムとアムドの統治は緩んでいて、伝統的に多くの独立、半独立の小国の間で分割されていた、それらは連合的な僧院生活の制度を通じて、中央チベットといくらか文化的、社会的に結合されていた。
実際、汎チベットのアイデンティティの感覚を無意識のうちに促進させたのは中国共産政権の到来であった。それは、漢族と回族(イスラム教徒)の中国人という形の「他者」との出会いと、中国共産党の民族政策の実施への反応であった。その民族政策はソ連のモデルに基づいたもので、すべての地域のチベット人は、ひとつのチベット民族として分類されている。それはまったく正しい分類であった(今日では、nationality民族は中国政府の文書では、ethnic group「族群」と訳されていることが多い)。
その結果、四川省の地域の約50%、青海省の80%以上、甘粛省のかなりの部分が、いわゆるチベット自治州、自治県として組織されている。2008年3月中旬以来、抗議行動と暴動が起きているのは、こうした地域である。
極東アムドでのチベット人がチベット国旗を掲揚している光景(カナダのテレビが撮影した)は、チベット人の民族意識の進化において歴史的な瞬間である。なぜなら、チベット「国」旗は実際にはダライ・ラマ13世(1895−1933)の治世の時に当時のできたばかりのチベット軍の軍旗として導入されたものであったからだ。その軍隊はチベット世界のこうした遠い部分に支配を及ぼすことはなかった。事実、中央チベット政府の軍隊は、19世紀後半と20世紀前半において、東チベットではかなりの疑いと反感で見られていた。チベット人はいまや、大チベットという概念を受け入れる準備ができているようだ。7世紀と9世紀の間のチベット帝国(訳注1)の期間以来、政治的表現として大チベットという概念はなかった。
政治的見通し
けれども、中国内でチベット地域の政治的統一を求めることは、中国国家にはきわめて脅威である。チベット地域のそうした行政的統一を求めた初期の者は、カム出身のチベット人共産主義者、ババ・プンツォク・ワンギェル(訳注2)であった。彼は1951年のチベットの中国編入に力を尽くした。旧政権のもとで扇動したため、チベットから追放されたババ・プンツォク・ワンギェルは1950年から1951年にかけて、人民解放軍をチベットに導いた。彼は捕獲されたチベット軍のアボ・アワン・ジグメ司令官(訳注3)を取り込むうえで重要な役割をはたした。アボ・アワン・ジグメは後に、チベットにおける中国支配を正当化する最も名高いチベット人となった。
彼は当時、中国政府と北京で1951年に17ヶ条協定に調印したチベットの代表団との間の重要な仲介者であった。その協定は今では都合よく忘れ去られているが、チベットのために1国2制度を銘記したものであった。彼はまた、ダライ・ラマが1954年から1955年にかけて中国を6ヶ月間、旅行した時に主任通訳を務めた。当時、若きダライ・ラマは毛沢東と中国の共産主義者に非常に感銘を受けて、中国共産党に入党を求めたほどであった。
けれども、こうした重要な出来事と共産中国への編入に彼がはたした歴史的な役割にもかかわらず、ババ・プンツォク・ワンギェルの破滅のもとになったのは、中国内のチベットの言語的、文化的地域の統一という彼の願望であった。1958年に彼は逮捕され、「地方民族主義」の罪で訴追され、18年間、独房に入れられた(ネルソン・マンデラよりも長い)。
現在のチベットの抗議活動は、軍事支配を一時的に敷くこと、チベットの宗教に対する支配を強めること、チベット高原の中国化をさらに強めることしかもたらさないであろう。けれども、チベット人の間の敵意と一触即発の不満はおさまることはないであろう。チベットにおける現在の騒乱を、いわゆる「ダライ集団」のせいにすることによって、中国政府にとって、チベット人の不満と政治的疎外感が続くことは確実である。
チベット文化の世界全土で、亡命している精神指導者とかかわりを持ちたくないと思っているチベット人は、ほとんどいないからだ。中国側に政治的な意欲があるならば、チベット問題は解決しうる。だが、ダライ・ラマを悪魔化し、チベット人の願望に一歩も妥協しないでいるなら、中国は中国西部のこの広大な地域での厄介な民族関係を必ず悪化させるであろう。
*ジョージ・フィッツハーバート オックスフォード大学のチベット研究学者
訳注1 吐蕃(中国名)のこと
訳注2 Bapa Phuntso Wangye 同氏の伝記である阿部治平著「もうひとつのチベット現代史」では、プンツォク・ワンギェル、「ダライ・ラマ自伝」(山際素男訳)ではブンツォ・ワンギャルと表記されている。通称ブンワン。
訳注3 Ngapo Ngawang Jigme 当時カム省長 「もうひとつのチベット現代史」ではガボ・アワンジグメ、「ダライ・ラマ自伝」翻訳ではアボ・アワン・ジグメと表記されている。
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文
(翻訳 鳥居英晴)
異なることへの権利 チベット人の反乱
- 2008/03/24(月) 17:00:53

2008年3月のチベット人の反乱は1959年と1987年の時と同じように、中国軍の圧倒的な力で押しつぶされるであろう。これ以上に不釣り合いな取り合わせはいない。茶色の服を着た尼や僧と世界的に台頭している国の抑圧機械という取り合わせである。ここ数カ月、人民を鎮圧するのが目的の即応機動戦術隊が、チベットの町の街頭で、現在行っていることを公然とリハーサルしていた。
反乱がほとんど確実に自殺行為同然のものであるとするなら、その意味は何なのか。
この反乱は多くのチベット独自な性格を持っている。街頭のレベルでは、中国人の店から持ち出された格好の品物は、通常では略奪者の標的にはほとんどならないトイレットペーパーであった。チベット人が数千年にわたってトイレットペーパーに大いに必要性を感じてきた訳ではない。醤油のように中華料理に基本的なものに必要性を感じていた訳でもない。チベット人がトイレットペーパーでしたことは、それを電線に投げつけることあった。そうやって、ラサやそのほかのチベットの町をただちに再びチベット的にすることであった。中国の25%が民族的に、文化的にチベットであるが、引き伸ばされたトイレットペーパーは風の馬(訳注1)、チベット人が互いにあいさつをしたり、感謝するときに使う白い絹の(カタ)スカーフのように見えるのである。チベット人が皆知っているように、それは彼らのメッセージを風に乗せて運んでくれる。神の勝利である!(訳注2)
それがこの反乱の意味である。つまり、チベットを再びチベット的にすることである。白いスカーフはチベット人の商人を攻撃から守ることにもなった。街頭は、短く、また犠牲の多い自由の瞬間であったが、移住してきた中国人商人の店を打ち壊すチベット人であふれた。
街頭を自分たちのものにすることに夢中になっているときでさえ、チベット人は常時ある監視カメラ、都市のチベット人の私生活に入り込んでいる内通者のネットワークを忘れることはできなかったはずだ。また、近代的で、ハイテクを備えた圧政の抑圧的権力が、彼らを捕え、また容赦がないことに気づいていないチベット人はいなかったはずだ。チベット人は皆、昔の友人が監獄と拷問から解放されても、昔の知人を避けることを知っている。なぜなら、彼らは拷問者から、党の路線と合わない考えを私的に話す人物の名前を言うよう常に圧力を受けているからである。こうした内通者は再び引っ張られ、さらに拷問を受け、友人を裏切る恐怖の中に暮らしている。
これが今回の反乱をチベット独特のものにしているものだ。抗議が、親族との関係を断ち切り、無条件に人類全体のために命をささげる人々によって、最初から率いられていることは偶然ではない。チベットの尼と僧は、一切衆生を心と外界の苦しみのすべての源から解放するために働くことを誓っている。ダライラマから見習い僧になったばかりの者にいたるまで、彼らは存在への執着、誰よりもまず己の存在への執着を断ち切るため、瞑想で修行する。
彼らは自分たちが死ぬことを知っており、その準備ができている。25年前のチベット人の大反乱と同じように、多くの者たちが拷問の末に秘密の独房で死ぬであろう。世界がもはや見ないか、見えなくなったとき、このオリンピックの年に世界を中国の恥に関心を寄せるために、そうした危険を冒したチベット人は死ぬであろう。
チベットの基礎にあるもの
チベット人は今日の中国について、どこに異議を唱えているのか。数千年の隣人であるチベット人と中国人が仲良くやっていけないのはなぜなのか。メディアの報道は当座の原因に焦点を当てるが、もっと根が深いものがある。チベット人と30年間仕事をし、チベットでの中国の開発計画をわたし自身で見てきた経験(短期間、拘束されたこともある)からすると、わたしはチベット人の友人がわたしに語ったことを共有する。現代の中国の資本主義的現代化は、チベット人にとって、過去の国家による暴力と抑圧と同じように問題なのである。
中国は現在、チベットにお金を注ぎ込んでいる。圧倒的な国家のお金である。鉄道に、道路に、観光施設に、管理職の多すぎる行政エリートに。ガラスの塔、ショッピングセンター、ディスコに見せかけた巨大な売春宿、高くそびえるオフィスがチベットの都市の景観を占めている。20年前のそれは、祈りの旗、寺それに瞑想の聖なる景観であった。
表面的には、それは進歩である。ラサはいま、中国の新興都市のように見える。外部の者は、それは近代化の代価であるなどと言う。しかし、チベット人は近代化の物質的恩恵から締め出されている。非チベット人の集団が建設現場やタクシーの運転など非熟練の職でさえ得ているのを、チベット人は力なく見ている。チベット人は貧しいままであり、社会的に締め出されている。国家による建設ブームの片隅に押しやられ、観光客が彼らの精神的巡礼にカメラを向けるとき、微笑まなければならない少数派にされた。聖なる都市、ラサと抗議デモが始まった大きな僧院はすべて、多数の中国人旅行者であふれていた。彼らは、悟りへの道にある人々の最も私的な宗教的情熱へむかってレンズを突きつけた。
開業して2年にならないラサへの新しい鉄道は、観光ブーム、売春宿、チベット人の疎外に拍車をかけた。ほとんどのチベット人は西欧と同じ広さのいなかに住んでいる。ヤクや羊、ヤギの群れと、中国人官僚が数十年前に厳格に配分した土地で辛うじて生計をたてている。中国人官僚は家族が増え、新しい家族ができても土地の再分割を拒否している。景気のいい都市と放置された地方をひっくるめた省全体の平均の統計は、生活水準が上がっていることを示しているが、チベット人の間の貧困はそのままである。
チベット人の生活様式をいま脅かしているものは、環境主義のイデオロギーで包まれてやってきている。中国の二つの大河、長江と黄河のチベットの上流地帯を保護するという名目で、数千人のチベット人遊牧民は土地を追われ、何もない、みじめな新しい町に定住させられている。彼らの生活手段と土地と持続可能な経営についての詳しい知識はすぐに役に立たなくなる。だが、彼らは新たな能力の訓練が与えられることはめったになく、生存のための穀物の配給以上の補償はされない。
広さではオーストラリアの牧草地に次ぐ広大な草原の劣化は、遊牧民が無知で無頓着なためであるとする誤った前提のもとで、遊牧民は環境難民になっており、そうした地域は広く急速に拡大している。遊牧民は意見が言えないようにされており、自分たちのNGOをつくることも許されていない。遊牧民は数千年にわたり、生産力と野生生物を持続させてきたが、いかに土地を大切にしてきたかを示す機会を持てないでいる。中国の都市の党のエリートは、遊牧民を愚かで、教育がなく、非科学的で、貪欲で破壊的であると見なす。当局と土地に住む人々の間には協力関係はない。なぜなら、彼らは、国民共同体、背景、経験、世界観において、まったく異なるからである。
これが反乱の基礎にあるものである。中国当局は地方のチベット人を軽蔑し、都市の教育を受けたチベット人は疑いの目で見られている。中国と党への忠誠心は極端な「愛国教育」で試され、最も尊敬される僧を非難するように強制される。
China’s time-warp
チベットでチベット人でいることは、1950年代にミシシッピーで黒人であることに比べられる。チベット内の旅行、地方から都市への移住、許される家畜の数、許される子供の数、それらはみな個人の生活に入り込んでくる役人によって厳格に抑圧的に管理されている。一方、資本主義的な利用者支払いの原則のもとで、医療と教育は都市部に集中している。前払いの金を持っていなければ、病院で玄関払いされる。
僧と尼は、心を浄化し、純化するために人生をささげており、師、師の師、最高の存在であるダライラマの模範的行動から啓示を受けている。前回のチベットの反乱の際に戒厳令をしいた胡錦濤(3月15日に5年の任期の国家主席に再選された)を含む中国の党の指導者は、僧に対しダライラマの像を踏みつけ、つばを吐くように要求することはチベット人の疎外感を深めているだけであるということを学んでいないようだ。
世界が今日、垣間見た中国の姿は、チベットでは、誰もが望むようには変わっていない中国を見せつけた。中国の支配のもとにあるチベットは、マルクス主義の反宗教宣伝、大告発キャンペーン、思想改造というタイムワープに陥っている。チベットにおける中国の政策は深く矛盾し、自己破壊的である。
武力では帝国は国にはならない、と中国は友人から教えられる必要がる。(親しい友人として、また中国語が堪能な首相がいるオーストラリアは、孤立し、恐れている党指導者に気付かせる特異な場にある。反乱者の「いい加減にしてくれ」というメッセージに耳を傾けることで得るものは多いということを。オーストラリアはまた、土地の管理と手当て、地方のコミュニティ、協力者として働きながら、長期にわたる傷みを修復すること、いかに地元の人々を尊敬し、和解する困難な方法を見出すことについて、中国に教えることができる。
ダライラマはこう言っている。「チベット人と中国人は過去において、良い関係を持ってきた。再び持つことは可能である。ただし、幸福の源について考え方が異なるに人間対する相互の尊敬があるならば」。
チベットの僧と尼はいま、その違いを保つために、冷静さとともに憎しみを募らせることなく、死につつある。
*ガブリエル・ラフィッテ チベット亡命政府の環境開発デスクの開発政策コンサルタント。オーストラリア・チベット評議会の援助開発コーディネーター。1999年、青海省のチベット人地区での世界銀行のプロジェクトについて、評価をチベット人に依頼される。その計画は、チベット人遊牧民を移住させ、数万人の非チベット人の移住者を送り込んで、貧困を減らすというものである。その世銀のプロジェクトの現場で中国の公安当局により拘束され、1週間にわたって尋問され、国外退去処分にされた。
訳注1 チベットでは風の馬(ルンタ)は風に乗って空を駆けて仏の教えを広め、願いを天に届けてくれると信じられている。家々の屋上や峠には、風の馬を刷った5色の旗、タルチョが風にはためいている。
訳注2 チベットでは、峠越えなどの儀礼において「ラ・ギャロー!」(神に勝利あれ!)と唱える習慣がある。
原文
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(翻訳 鳥居英晴)
コソボ人とは何者なのか
- 2008/02/25(月) 12:55:57

民族のアイデンティティの問題は常に議論や論争を引き起こす可能性を持っている。政治的な国境で分断されながら、多くの類似点を共有する人々の間では特にそうであろう。Kosova(その地域はアルバニア語方式ではそうつづられる)のアルバニア人は、エスニックや民族のアイデンティティと関連した問題に過去も現在も取りつかれているそうした集団のひとつである。それは理解できることである。
何年にもわたり、彼らは何がないか知っていた。何十年間もユーゴスラビアのパスポートを持ち、アルバニアの人々が夢に見ることさえもできなかった自由を享受したが、彼らはユーゴスラビア人と呼ばれるのを好まなかった。世界の多くは彼らの国を単にセルビアの一地方と見なし、実際、一部の者はまだそう見なしているが、彼らは確かにセルビア人ではなかった。
だが、2008年2月17日に独立を宣言した国の市民であるコソボ人(Kosovar)とは何であり、何者なのか。彼らは全くのアルバニア人なのか、すなわち、アルバニア共和国の住民と同じ人々なのか。それとも、特別の種族のコソボ・アルバニア人なのか。このことについての混乱によって、1998年から1999年のコソボ戦争の前とその間に、「エスニック・アルバニア人」という幾分けなした言い方が生まれた。
わたしが「けなした」と言うのは、その言葉が外部からコソボ・アルバニア人に押し付けられ、戦争の間とその後にほとんど世界的に使われる一方、コソボのセルビア人住民に対応する「エスニック・セルビア人」という言葉は定着しなかったからである。こうして、暗黙のうちにその国は単にセルビアの一部であると示唆することになった
コソボ・アルバニア人の側での、アルバニア人である権利のための何年もの戦い中で、コソボ人の固有アイデンティティに関する話題は極めてタブーであった。その時代の政治的状況の中では、それはコソボのアルバニア人とアルバニアのアルバニア人の間にくさびを打ち込み、拡張的なセルビアのためにアルバニア民族(nation)を分断し、弱体化させることに等しいものと見なされた。
コソボ人は、特にベオグラードのかつての共産当局による陰謀のために、この問題に特に敏感である。セルビア人が主に住むところではなかったその地域に対する支配を維持するために、1945年以降、ベオグラードはアルバニア人を指す言葉としてセルビア語で二つの異なった言葉を作った。アルバニア共和国の住民を意味するAlbanci とコソボと旧ユーゴスラビアのその他の地域のアルバニア語を話す住民を指すŠiptari で、その言葉にはマイナスの響きがあった。ベオグラードの当局は、潜在的な統一の願望を抑える試みの一環として、ひとつの民族集団(ethnic group)を二つに巧みに分断した。
ひとつの世界、二つの世界
西側世界は、ユーゴスラビア戦争と民族紛争、それにアルバニアにおける1997年の騒乱の結果として、1990年代にようやくアルバニア人を真に発見したのである。当時の新聞とテレビの報道はアルバニア人を二種類のものとして示した。つまり、ゲグとトスク(すなわち、北部のアルバニア人と南部のアルバニア人。方言学者と民族誌学者は彼らをそう分けている)ではなく、本物のアルバニア人とコソボの「エスニックな」アルバニア人である。
アイデンティティ、特に民族(national)のアイデンティティのような問題は他と同じように、ここでも複雑である。決定的な判断はほとんど不可能であり、短い記事では確かに不可能である。基本的な疑問が核心を示している。コソボ人はアルバニア共和国の住民と同じ人々なのかである。
表面上は、それは明確のように見える。もちろん、彼らはそうである。彼らは基本的に同じ民族性(ethnicity)を持ち、かなりの方言の違いはあるものの、同じ言語を話し、一定の同じ価値のコミュニティを持っている。従って、彼らは民族(nation)をなすものとしての基本的な属性のほとんどを共有している。アンソニー・スミスは、これを次のように規定した。「(通常、生まれながらにして)歴史的領土、共通の神話と歴史的記憶、多くの場合、共通の言語、大衆の共通文化、脅威の認識、すべてのメンバーのための共通の合法的権利と義務を分かち合った人間集団」。
これまでのところは良い。だが、この問題に完全な答えを求めるなら、それはドイツ人が言うところのjein、つまり、そうであり、かつそうでないである。
BBCのアナリスト、Paulin Kolaは、その問題の性格を次のように述べている。「アルバニア人は、彼ら自身より強い国の度重なる侵略を受ける側にあって、分裂したままで、集団的忠誠を命じる統一的な中央権威を確立できないままであった」(The Search for Greater Albania C Hurst, 2003).
アルバニア人が主に住む南東欧州の領土という民族的(ethnic)意味でのアルバニアは、オスマン帝国の一部として約5世紀にわたり一体であった。1912年から1913年の第一次バルカン戦争で消滅しかけていた帝国が最終的に崩壊すると、コソボ(当時、アルバニア人が多数派を占めていた)はセルビア王、ペータル1世のセルビア第3軍に侵略され、征服された。現在の政治的意味でのアルバニア自体は1912年11月、かなり混乱した中で独立を宣言し、1913年夏のロンドン会議において国際的な承認を勝ち取った。
その時以来、アルバニア人は二つの異なった国に暮らしている。もっと正確に言うと、6つの異なった国に暮らしている。なぜなら、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、ギリシャ(イタリアでの昔からのと新しいコミュニティは言うまでもなく)には相当数のアルバニア人のコミュニティが存在するからである。しかし、中心的な定住地は1913年にアルバニア人が絶対的な多数派であった、その二つの地域であったし、現在にいたるまでそうである。
月の陰に隠れて
第一次世界大戦の終わりから第二次世界大戦の始まりまでの1918年から1939年の間、アルバニアの文化は二つの異なる世界で発展した。この期間に、特にゾグ王の時代(1928年―1939年)に、母国のアルバニア人は、欧州の基準からすれば素朴なものであったかもしてないが、同質な民族(national)文化をゆっくりではあるが発達できた。
一方、コソボ・アルバニア人はこの間に、セルビア・クロアチア・スロベニア王国の中で、迷惑な客として、かつてない程の民族差別を受け、政治的にも文化的にも進歩することができなかった。コソボにおけるアルバニア語の公的な使用(アルバニア語の学校における教育)は、オスマン帝国の時と同じように、「第一次ユーゴスラビア」では禁止された。
第二次世界大戦中のファシスト・イタリアのもとでのアルバニアとコソボの短い統一は、 ある程度の安堵をもたらした。短命ではあったがアルバニア語による行政がつくられ、小学校と中学校が開校し、多くの若いコソボ人が留学するために奨学金を受けた。多くのコソボ人がイタリアとナチス・ドイツの占領を歓迎したとするなら、それはファシズムを好んだためではなかった。それは単に、多くの人々にとってイタリアとドイツの占領は、セルビアの占領より、はるかに好ましいものであったからである。その事実は、セルビアのもとでの経験の性質を反映していた。
だが、コソボは1945年からセルビアの支配に戻り、住民の多数の意思に反して、社会主義ユーゴスラビアに取り込まれた。それは1990年代のユーゴスラビアの戦争まで続いた。けれども、1946年から1947年にかけて(ティラナでの共産主義者の勝利の後)、アルバニアとコソボの間に僅かな接触が存在した短い時期があった。実際、当時、アルバニアとコソボのだけでなく、アルバニアとユーゴスラビアの政治統合の計画が進行していた。ユーゴスラビアのディナールがアルバニアの通貨として導入され、セルボ・クロアチア語がアルバニアの学校で必須となった。
けれども、チトーとスターリンの間の大きな亀裂、それにアルバニアの指導者、エンベル・ホッジャがベオグラードに反対し、モスクワと固く手を結ぶ選択をしたことで、政治状況は根本的に変わった。1948年夏から1990年代まで、アルバニアとコソボの間の国境は完全に封鎖された。ベルリンの壁は、比較すれば、ざるであった。セルビアの「出国ビザ」を持たずにアルバニアを訪れたコソボ・アルバニア人は、1998年においても投獄された。
アルバニアとコソボの間のこの強要された分割と長期間の分断の明白な結果は、文化的分裂であった。二つの異なったアルバニア文化と、二つの異なったアルバニア民族(nations)とも言えるものである。
アルバニアのエンベル・ホッジャの孤立主義政権は半世紀近く、スターリンとその後継者の粗野で非人間的な体制を固く守り、1940年代後半、中産階級を消滅させ、その後の数十年間、経済的・文化的停滞しかもたらさなかった。国民は無知と恐怖、窮乏のもとで暮した。物質的には、彼らは生存するのに必要な最低限のもの以外は奪われた。実際、人々がいかに生存できたか驚嘆せざるを得ない。
伝統的なアルバニアの文化のほとんどの側面は破壊された。特に、1960年代においてそうであった。数十年にわたる共産主義革命、粛清、恐怖はアルバニアがかつてあったほとんどすべてのものを破壊した。今日においてもなお、アルバニアは世界から数十年間にわたり社会的・文化的に孤立したことによる犠牲者である。そうした状況の中で、アルバニアの国民はコソボに思いをめぐらす時間もエネルギーもなかった。家族のつながりを持たないほとんどの人々にとって、コソボは月の陰に隠れたどこかにあった。
山の橋
一方、コソボは常にユーゴスラビアの貧乏人であったが、ある程度の経済的前進をし、1970年代までにある程度の繁栄(控え目なアルバニアの言い方で)を達成した。けれども、1974年から1981年の時期を例外にして、コソボ人の社会はセルビアから政治的にも文化的に常にすさまじい圧力を受けていた。その結果、内に引きこもり、閉鎖的で伝統的なままであった。
コソボ・アルバニア人はスターリン主義のアルバニアで何が起きているのかほとんど知らなかった。それは彼らの夢、希望、あこがれの国であった。現実には、そうした夢の場所はなかった。彼らは無邪気にも、彼らの運命は母国のそれよりずっと悪いと見なしていた。1990年代後半、エンベル・ホッジャのもとでの同胞よりも、セルビアのもとでの自分たちのほうがずっと良い暮らしをしていたという事実を受け入れなければならなかった時は、うちのめされた。
1990年代前半、ティラナの共産政権がゆっくり崩壊していく間やその後の、二つのアルバニア民族の間の数十年の分断の後の初めての接触は、偏見に彩られていた。ティラナに着いた最初のコソボ人の一部は、西欧にいる国外移住者出身の渡り者で、そこで手っ取り早く金儲けをしようとした。彼らは自由市場経済を持ち込むとともに、汚職と犯罪も持ち込んだ。
地元のアルバニア人は、新しい資本主義のやり方に衝撃と敵意で対応し、やってきた人々を外国人と見なした。実際、1990年代前半に、コソボ・アルバニア人はティラナでよりベオグラードで歓迎されたと言っても過言ではない。西欧に生まれたアルバニア人移住者の多くのコミュニティも、はっきりと分断したままであった。アルバニアからのアルバニア人とコソボからのアルバニア人は公的、私的に交わることはなかった。そして、ほとんどの場合、潜在した、あるいは公然とした敵意でもって相対した。1990年代には、確かにアルバニア人のアイデンティティはひとつではなく、二つであった。
転機が訪れたのは、1999年3月から6月のNATOとソロボダン・ミロセビッチのベオグラード政権の間のコソボの支配をめぐる戦争が始まってからであった。その時、セルビア民兵によって追い出された(多くの場合、燃える家から)約80万人のコソボ人のうち、約50万人が隣のアルバニアに避難した。
アルバニアはまだ非常に貧しく、立ち遅れ、人々は過度に「難民」を受け入れようとはしなかったが、彼らはコソボ人を精一杯受け入れた。アルバニア人が互いに知り合うようになったのは1999年のこの3ヶ月であり、言語、文化的に大きな誤解があるにもかかわらず、彼らはひとつの民族(nation)であると自覚し始めた。その時以来、国境が開かれ、アルバニア人は共に育っている。文化的、政治的、経済的、個人的な接触はアルバニア民族の歴史ではかつて見られなかったほど盛んになった。
アルバニアの歴史の曲がりくねった経過は、はっきりと異なる二つのアイデンティティを強固なものにし、それはしばらくの間、疑いなく存在し続けるであろう。だが、彼らが好むと好まざるとをかかわらず、彼らは一緒に成長していくであろう。コソボの政治的独立はアルバニア人に、彼らが乗り越えてきた歴史を踏まえて、自身の自己認識を獲得する機会を与えるであろう。
*ロバート・エルシー(Robert Elsie) アルバニア文学の研究者。1950年、カナダ・バンクーバー生まれ。ブリティッシュ・コロンビア大学卒。ベルリン自由大学、パリ大学、ボン大学などで研究を続ける。1982年から1987年にドイツ外務省に勤務。以後、アルバニア語とドイツ語の通訳。アルバニア文化に関する著作多数。ドイツ在住。
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本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。
原文
(翻訳 鳥居英晴)



